▼1986年4月7日 当時、若手ナンバーワンとされていた萩原 光が事故死
萩原 光(はぎわら あきら、1956年7月21日 - 1986年4月7日)は、レーシングドライバー。神奈川県小田原市出身。星野一義の弟子。
4月7日にレイトンハウスのメルセデス・ベンツ 190E 2.3-16のテスト走行中、スポーツランド菅生(当時)の2コーナーでコースアウトしクラッシュ。マシンは炎上し、そのまま息を引き取った。享年29。
▼富士フレッシュマンレースで頭角を現しF3、FP、F2とステップアップ
1977年7月に富士1000kmでレースデビュー。1981年、全日本F3選手権シリーズ2位。
翌1982年には全日本フォーミュラ・パシフィックに参戦し、同年秋、全日本F2選手権デビュー。
1983年から世界耐久選手権(WEC)や全日本ツーリングカー選手権(JTC、1985年から参戦)、全日本耐久選手権(当時)などのレースにて活躍。
▼1986年シーズンはレイトンハウスレーシングチームのナンバー1ドライバーとして活躍が期待されていた
グループCカーによる耐久レースにはニスモから出場するはずだった
6月のルマン24時間にもドライバーとして予定されていた
86年のルマンでの萩原の代役は鈴木亜久里だった
鈴木亜久里はその後F1にまで登り詰める
▼悲劇の始まりは前日の鈴鹿500kmから始まっていた
日産のニューマシン「R86V」でレース出場だったのだが、決勝日朝のフリー走行でマシンは走行開始後直ぐに炎に包まれてしまい、この時は難無く無事に脱出出来たのだが・・・。
本来ならば、このテストには参加せず、4月6日に開催された全日本耐久選手権の開幕戦 鈴鹿500kmレース決勝に出走、翌7日は移動日のはずであった。
しかし、鈴鹿で乗る予定だったニッサンR86Vがフリー走行中に出火し、参戦が不能となった。
ここでスケジュールを変更し、ベンツ190Eのテスト走行のため、急遽菅生に向かったことがこの悲劇につながってしまった。
▼1986年4月7日・・・・一体何が起こったのか?
グループA第1戦(西日本サーキット)でスカイラインとデッドヒートを演じてくれた本番車と、4月5日に購入したばかりのニューカー、MB190-2・3が並んでいる。
「どっちに乗るんだ?」
ぼくが訊くのに、光はすかさず、答えた。
「本番車でたのみます」
彼はチームのファーストドライバーだ。ニューカーのテストは「当然、ぼくの仕事です」と、その目が語っている。
「よっしゃ」
ぼくはMBに乗りこむと、先にコースに出た。7、8周したろうか……。59秒台が出たのでいったんピットインすることにした。スプリングとギアのレシオがいまいちでもあったから。
その間、光は走っていた。聞くところによると、彼は一度ピットインしたらしい。
だが、その走りっぷりは攻撃的で、しかも、繊細。ニューカーとの入念な対話がうかがえて、テスターとしても満点だ。
《本番車》の調整のために、メカニックが部品を探している。
レイトンハウスの赤城社長が「部品が届くまで乗ってきたい」という。ギア比の問題点をちょっぴりレクチュアして、ぼくは赤城社長の乗る《本番車》をピットから送り出した。
コースでは光のMBとトッペイちゃん(都平)のスカイラインがテール・トゥ・ノーズで周回している。快調に飛ばしている。
「やるじゃないか」と、ぼくは思わずニンマリとしたものだ。
光のタイムが上がってきた。トッペイちゃんのスカイラインを引き離していく。
突然、サーキットからエクゾーストノートが消えた。しかも、全車とも戻ってこない。
おかしいなあ……ピットで誰かれとなく、つぶやきはじめたとき、コースの管理者がすっ飛んできて叫んだ。
「誰か、赤旗を降ってくれ! たのみましたよ!」
と、消火器をもって彼もピットを飛び出していった。
メカニックの若者が赤旗をもってコースにでたもののそれはなんの意味もなかった。1車たりとも戻ってこないのだから……。クラッシュだな、いったい、誰だろう――。
レイトンカラーの16番が全開でピットロードを突進してきた。赤城社長が運転する《本番車》だ。
「消火器! 消火器を出してくれ! 光らしい。光みたいだ」
クソ! ちっぽけな台所用の消火器しかない。ぼくとメカニックはMB16番に飛び乗って《現場》に飛んだ。
すごい風だ。吹き荒んでいる。
火が舞い上がる。もう、恐ろしいほどの火だ。クルマの中の黒い陰影、あれが光なのかっ!
はやく! はやく火を消せ!
――ところが、消火器程度で消えるシロモノじゃない。まったく、手がつけられない状態である。光を包みこんだ炎が風にあおられて、右へ、左へ!
……30分ほど経過しただろうか。やっと鎮火した。火は消えたが、光は、サーキットの風になった。
つい先刻まで、満開の桜のように輝いていた青年が、炭化して、真っ黒な物体に変っている。
狂ったような炎に包まれて光は悲鳴ひとつあげることもできず、コクピットの中で、孤独な最期を迎え、あげく、無残な遺体になった。
▼あれだけのクラッシュにサーキットには家庭用の消火器しかなかった とても太刀打ちできなかった・・・・
もっていきようのない怒りがこみ上げる。がンさんは心の中で光に、詫びながら、誓っていた。
「強風と、なんの役にも立たなかったちっぽけな消火器。光の若い命を救えなかった原因は多々ある。けれども、なによりも先に、光に詫びなければならない。プロフェッショナル・レーシング・ドライバーと呼ばれるぼくたちが、それを仕事としたときから実行しなかった安全対策、ドライバー間の相互連絡機構など、先輩としての《やり残し》が次から次に、ぼくの頭に浮かんでくる。光、聞いてくれるか。きみの死を無駄にしないためにも、モータースポーツ界の矛盾を掘り起し、まず第一に取り組まなければならないのは、レーシングドライバーの安全対策だ。せめて飛行場にある化学消防車を各サーキットに配置してもらうよう運動したい」
ガンさんには、あの富士スピードウェイでの多重アクシデントをはじめ、不幸な過去がある。彼自身が死に直面したレーシング事故もある。星野一義、松本恵二らと語らって、それからのガンさんが精力的に動いたのを、わたしは記憶している……。
▼4月6日~4月12日 一連の動きまとめ
*4月6日(日)=鈴鹿*朝のウォーミングアップでアクシデント発生。アキラの駆っている日産グループCカーが炎上した。
ちょうどストレートのオーロラビジョンの前に並行するピットロードでストップ、火を噴いた。
レース出場は断念。耐久レースのスタートを見送る。スタート直後、マネージャー役でもある弟の任くんの運転で小田原の自宅へ。PM1時着。
PM10時、東京。任君のマンションで仮眠をとる。
*4月7日(月)=AM5時*白のMB500を駆って一路、菅生へ。レイトンハウス取締役の八島正人氏、レーシングドライバーの影山正彦くん、それに任君の3人が同乗、交替でハンドルを握る。
▼AM8時45分▼菅生着 モーニングコーヒーを飲みながら、スタッフと雑談。そこへ黒澤さんが仙台から到着。ウィナーズルームで、ふたりで着替える。
▼AM10時▼コースイン ガンさん《本番車》で周回。アキラはMB190-2・3のニューカーに搭乗。
▼AM10時30分▼MB190-2・3、第2コーナー沿いの山肌に激突、炎上。テール・トゥ・ノーズでアキラを追っていた都平選手の目前で火花が散った。
駆けつけたレイトンハウス社長、赤城氏はホイールの色でアキラのクルマと判断。
3月末到着したばかりのニューカーはカラーリングも白のままだったが、ホイールだけはチーム用を履いていた。
*4月8日(火)*AM1時、遺体となったアキラ、小田原の実家に着く。
*4月9日(水)*火葬。
*4月11日(金)PM7時、通夜。戒名・曹洞宗=新帰元超雲光徹居士。レース関係者が続々詰めかけて、アキラの死を悼む。そこはまるでパドックの再現だ。
1昨年事故死した高橋徹選手の母の姿も……。
*4月12日(土)*本葬。桜の花が散る中、アキラ天に昇る。
▼PM6時▼忌中祓いの席上、あいさつに立った星野、慟哭、無言。
▼4月12日告別式 葬儀にはF2マシン、マーチ86Jが運び込まれた
「FRI・フォーカス」としゃれた題をつけ、見開きで萩原光の告別式の模様を伝えたのは、このページだったのか。アキラ専用だったF2マシンに花々を供え、アキラのパネル写真が飾られている。この葬儀は、あたかも鈴鹿・富士のパドックを再現したかのようだった。
「光にレースを許したとき、いつか、この日のくることはわかっていた。覚悟はしていたけれども、親として、この子だけはと……。お世話になった皆さんにご恩返しもできないまま、光は死んでしまった。でも、恩返しは弟の任(まこと)が光に代わってやってくれるでしょう」
4月12日、告別式のあいさつで父、萩原本之さんが痛恨の胸中をのぞかせていた。
小田原市の小高い丘に並ぶ墓標のひとつに、若い石肌をみせる光の永眠の場がある。
光を弟のように可愛がっていた星野一義は、その墓石に水をかけたとき、はじめて「光の死」を実感したと漏らす。
そして、菅生の事故の前日にも、光は鈴鹿でマシンが燃えてしまうアクシデントに見舞われていて、不吉な予感がしてならなかったと明かしていた。
▼F2第2戦を前に追悼走行が行われた
F2とGCマシンが3台運び込まれドライバーは松本恵二、星野一義、高橋健二が務めた
▼1986年からキャビンを始めビッグスポンサーが次々に参入
ホンダのF1での活躍もあり、その後モータースポーツはブームとなった
▼時代はバブル景気に レイトンハウスは1987年からF1に参戦
どういう形であれ、もしかしたら萩原光もF1まで行けたのではないか?