◎優勝して「監督を泣かそう」チーム一丸で決勝へ!
「優勝したら、俺は泣くからな」。原田監督が朝のミーティングで発した一言が、選手の心に火を付けた。「監督を泣かしてやれ、とスイッチが入った」と控え捕手の横山。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140402-00000030-kyt-l26
◎春のセンバツ<龍谷大平安−履正社>決勝
初回に先頭の徳本健太朗外野手(3年)が三塁打を放ち、続く大谷司外野手(同)の内野安打でホームイン。
押し出しで2点目を追加した。
2点リードの三回途中に先発高橋奎から元氏へ継投
3、4回にも1点ずつを挙げて中押し。
八回、1死一、二塁のピンチを迎え、原田監督は元氏から3番手の犬塚に継投
9回表には4番を打つ主将の河合が1死二塁から右翼スタンドに2ラン本塁打を叩きこんで接戦にケリをつけた。
◎平安が履正社下し選抜初優勝!!
夏3度の優勝を誇る龍谷大平安が初めて春のセンバツを制し、1956年夏以来、58年ぶりに甲子園の頂点に立った。
◎原田英彦監督、男泣き…
アルプス席の前で選手たちの手によって3度宙を舞い、観客席と一体になって皆で万歳三唱してから優勝監督インタビューに臨んだ龍谷大平安(京都)の原田英彦監督(53)は、こみ上げてくるものをさすがに抑え切れなかった。
まずは「ありがとうございました!」と感謝の言葉を口にすると、「卒業生、OB、ファンの方々…色々な方に期待していただいて、そこをやつらがやってくれました!」と絶叫。
甲子園のお立ち台に上がった龍谷大平安の原田英彦監督(53)は「夢みたい。外から見ているような感じ」。監督、OBとしての感慨よりも「平安ファンとして本当にうれしい」と喜びをかみしめた。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140402-00000097-jij-spo
◎京都球界を常にリードする全国屈指の名門校「平安」
2008年に龍谷大付属に改称されたが、「平安」の名を知らない人はいない。
桧山進次郎
平安高(現・龍谷大平安高)から東洋大を経て、91年秋のドラフトで阪神から4位指名を受けた
「制服を着て歩いているだけで生徒は『平安』と声をかけられる。中にはお小遣いをわたそうとする人もいるぐらい。ダラダラしていると全部見られている」。生徒の礼儀作法については口を酸っぱくして指導する。
◎原田英彦監督は小学生から「平安ファン」
私が平安ファンになったのは、小学生の頃です。家が九条大宮で、東寺の側だったので平安高校までも近かったんです。
出典:名将 原田 その1
京都府出身。小学4年生の時につくったチームのユニホームには、胸に黒のフェルトペンで「HEIAN」と書き込んだ。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140402-00000097-jij-spo
当時の平安は、中学から行かないとレギュラーになれないという雰囲気があったんですよ。だから、中学受験を1次も受けて、2次も受けたんですが、全部滑って。仕方なく市立の九条中学へ行きました。
出典:名将 原田 その1
選抜大会で4強入りした1974年には「足しげく甲子園に通っていた」。筋金入りのファンが希望をかなえ、球児として本物に袖を通した。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140402-00000097-jij-spo
◎憧れの平安に入学!!
初めてユニフォームを着た時、「ああ、これや、カッコイイなあ」と思って。
出典:名将 原田 その1
平安の長期低迷時代、2年の秋に京都大会を制して近畿大会に出場したが、初戦の天理に1対3で敗れ、甲子園出場はならなかった。
出典:名将 原田 その1
◎社会人野球を経て、母校平安野球部監督に就任!!
日本新薬株式会社
1979年日本新薬に入社。
社会人野球では13年間で10度の都市対抗野球(社会人野球の甲子園)出場を果たす。
平成5年、名門復活を託され母校平安野球部監督に就任。
◎監督への不安もあったが…「平安に恩返ししたい」
ただ、子供が3人いて、生活をどないしょうかというのはありました。会社を辞めたら将来の保証ないですし。監督は1年でクビになるかもわかりませんし。やっぱり勇気いりました。
出典:名将 原田 その1
「平安を好きだったので、何とかしたいな」というのと、平安に大きくしてもらっていますから「平安に恩返ししたいな」という気持ちも出てきました。
出典:名将 原田 その1
◎名門、平安高校を低迷から復活させたい!
平安にも低迷期があった。55年春から平成2年夏までの10年間は部史上で最長のブランクだった。
(新入生)11人のうち、キャッチボールのできる子が2人でした。上級生も、私から見たら似たようなもんで、正直なところ「どないしょ」と思いました。
出典:名将原田2
「平安、ここまで落ちたんか」と。申し訳ないけど、ビックリしました。
出典:名将原田2
◎初戦負けを屈し、熱いオールドファンから罵声を浴びるも…
おっさんな、皆一緒やんけ。オレも甲子園行きたいんじゃあ、絶対甲子園連れて行ったるわ」言うて、握手して別れたんですよ。それで、心に火がつきましたね。
出典:名将原田2
◎不祥事も経験、監督不在で戦った苦い思い出も…
08年には2年生部員の暴行事件が発覚し、3年生だけで大会に出場した苦い経験もあった。
卒業部員が大学や企業で過ちを犯せば、監督自ら頭を下げに行くこともある。
◎そして、悲願のセンバツ初Vを果たした!!
母校を優勝に導いた原田英彦監督(53)は「OB、平安ファンの方の期待していただき、選手がよく応えてくれました。ほめてやってください。監督としてより、自分の母校の優勝がほんとにうれしい」と涙ながらに喜びを口にした。
◎原田監督はあまりスカウトには行かない
「平安で野球をしたい子供が入ってくれればいい。組織をつくる上ではそれが必要なこと」。「平安」の名に恥じない生徒を育てていくことが誇りだ。
◎名門「平安」としてのプライド
平安が強ければ、平安を倒すために皆が一生懸命やると思うんです。そうすれば京都のレベルが上がると思うんですよ。逆に、平安が弱い時は、京都のレベルが低いと思います。自慢じゃないですけど、平安には、そういう使命があると思います。
出典:名将原田2
監督在任期間は平安史上最長であり、その厚い人望とキャリアを活かし「原田野球」を確立する。