◎作詞家の岡本おさみさんが亡くなられた…
「襟裳岬」「旅の宿」などのヒット曲で知られる作詞家の岡本おさみ(おかもと・おさみ)さんが11月30日、心不全のため死去した。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151217-00050136-yom-ent
◎岡本おさみさん作詞の名曲「襟裳岬」にはこんな逸話が…
73年、ビクターレコードであるプランが持ち上がった。森をはじめ、橋幸夫や青江三奈らベテラン歌手に意外なミュージシャンと組ませて、新境地を開こうという企画だ。
出典:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120327002889110.html
森進一
演歌歌手という括りで扱われることが多いものの、本人は演歌歌手と呼ばれるのは不愉快とし、流行歌手であるとしている。そのため、演歌の枠に捉われず常に新たな音楽の領域に挑戦し続ける幅広い音楽性の持ち主でもある。一聴して森と分かる、独特のハスキーボイスを特徴とする。
「おふくろさん 」「襟裳岬」「冬のリヴィエラ」など…
◎演歌とフォークソングの融合!
このプロジェクトにかかわっていたのが、ディレクターになりたての23歳の青年。71年、「走れコータロー」が大ヒットしながら短期間で解散してしまった「ソルティーシュガー」のメンバーだった高橋隆は、この提案に組み合わせたい2人が思い浮かんだ。
出典:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120327002889110.html
◎森進一と吉田拓郎のコラボ!
それが森と拓郎だった。拓郎はある時、酒に酔った勢いで「森進一に曲を書いてみたい」と口に出して言ったことがあった。
出典:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120327002889110.html
吉田拓郎
日本のシンガーソングライターの草分け的存在であり、1970年代初頭、マイナーであったフォークとロックを、日本ポップス界のメジャーに引き上げた歌手である。
◎当時、精神的苦境に立たされていた森進一
当時の森は、母親の自殺や女性問題から苦境に立たされていた
1972年に女性ファンから婚約不履行で訴えられるが、後にこの女性の狂言であることが発覚する。この騒動をショックに森の母親は自殺。
◎落ち込む森に似たような経験を持つ吉田拓郎
5月23日に、4月18日の金沢公演の夜に女子大生に暴行されたと訴えられ、逮捕される。結局、虚偽であることが判明して不起訴となり6月2日に釈放された。
釈放の翌日に、神田共立講堂のステージに立つ。しかし、マスコミのバッシングにあい、ツアーのキャンセル、曲の放送禁止、他人への提供曲も放送禁止、CM(スバル・レックス(富士重工)、テクニクス(松下電器))の自粛といった処置がとられた。
◎当時拓郎とコンビだった岡本おさみさんが作詞を!
作詞をしたのは岡本おさみ。拓郎の「旅の宿」やファンの間で絶大な支持がある「落陽」を手掛けた。
出典:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120327002889110.html
岡本おさみさん
鳥取県米子市出身。「旅の宿」「落陽」「祭りのあと」「おきざりにした悲しみは」など、吉田拓郎さんの数多くの曲で作詞を担当。
◎吉田拓郎との作詞作曲コンビ
放送作家から作詞家に転身し、主にフォーク黎明期に活躍した。作曲者としての吉田拓郎とのコンビ
◎作詞の幅を広げるために旅に出た岡本おさみさん
構成作家も辞めて旅に出た。「ラジオ局と家の往復ばかりで外界を知らない。これでは詩は書けないと思った」からだ。20日旅に出て10日自宅にいるという生活が3~4年続いた。
◎その時の経験からできた「襟裳岬」の歌詞
実際に襟裳岬を訪ね、老夫婦が営む民宿に宿泊し、その時の体験を元に歌詞を書いた。
襟裳岬
その時、民宿のご主人と、「おじさん、襟裳って春は何があるの?」「う~ん…春は何も無いね~…」というやりとりがあり、ここから「襟裳の春は何もない春です」というフレーズが生まれた。
岡本が北海道襟裳町を旅した際に、地元の漁師と交流した時のことを綴ったもので、サビの「襟裳の春は何もない春です」とは岡本の率直な感想だった。
出典:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120327002889110.html
それを歌詞にして、拓郎に郵送した。
出典:森進一『襟裳岬』の歌詞をどう解釈すべきか?~冬季に悲しみと決別し、気持ちを整理するための歌 | et5652さんのブログ
◎まさに森進一と吉田拓郎の心境をあらわしていた…
岡本の詞の原詞は「焚火」というタイトルだった。傷つき、地獄をも見た人間が、すべての悲しみを集めて「焚火」で燃やす。原詞は、「何もない春」ではなく「何もない秋」だったようだ。いずれにしても凍てつく冬に立ち尽くさなくてはならない。この時の拓郎と森の心情に全くぴったりの言葉だったのかもしれない。
森進一-襟裳岬
出典元:YouTube
◎当初B面扱いだった「襟裳岬」
ビクターレコード上層部や渡辺プロダクションのスタッフの反応は「フォークソングのイメージは森に合わない」「こんな字余りのような曲は森に似合わない」と評され、吉田もこれ以上直せないところまで推敲を重ねたが、当初はB面扱いだった。
◎森が強引に両A面という扱いにすると…
レコード売り上げは31万枚を記録。日本レコード大賞を受賞した。
出典:http://www.sponichi.co.jp/entertainment/yomimono/music/anokoro/03/kiji/K20120327002889110.html
「襟裳岬」
累計では約100万枚のレコード売上を記録した。
◎「襟裳の春は何もない春です」に当時、えりも町には反感を持つ人も…
ヒットした当時、襟裳岬のあるえりも町の人々は、サビに登場する「襟裳の春は何もない春です」という歌詞に、反感を持つ人も少なくなく、渡辺プロや作詞者の岡本宅への抗議の電話もあった。
◎「襟裳岬」の大ヒットで、今では、逆に感謝されている…
やがて襟裳の知名度アップに貢献してそういった感情もなくなり、森はえりも町から感謝状を贈られた。1997年にはえりも町にこの歌の歌碑が建設され、その記念に同年の紅白でも歌唱された。
襟裳岬にたつ歌碑
◎「襟裳岬」との出会いが森進一の世界を変える!
この「襟裳岬」との出会い以降彼の曲の世界は転換期を迎え、通常の演歌歌手には無い趣向を持ち始める。
◎そして2015年11月30日、作詞家の岡本おさみさんが死去
作詞家の岡本おさみさんが、11月30日に心不全のため死去した。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151217-00000360-oric-ent
73歳だった。葬儀は近親者で済ませた。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151217-00050136-yom-ent
◎森進一、「襟裳岬」作詞の岡本おさみさんを偲ぶ
森は「謹んでお悔やみを申し上げます。『襟裳岬』をレコーディングした時、私は母を亡くした直後の時期で、私自身も岡本さんの詞に本当に励まされました」と回顧。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151218-00000515-sanspo-ent
続けて「多くの人に愛され、私にとりましても宝物のような『襟裳岬』を、これからも心を込めて大事に唄っていきたいと思います。いまは、心より御冥福をお祈りいたします」としのんだ。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151218-00000515-sanspo-ent
◎そして…森進一、紅白卒業宣言…
歌手生活50周年という節目で、来年以降、年末の大舞台から身を引く決断をした。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151205-00000013-nksports-ent
ブログでは48回の出場を「これもひとえに皆さまのご支援のたまもの」とファンに感謝。そして、ここ数年は「けじめ」として紅白からの引き際を考えてきたと打ち明けた。
出典:http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20151205-00000013-nksports-ent
◎森進一、最後の紅白歌合戦は「襟裳岬」を…の声…
数年前の紅白で森進一の襟裳岬を聴いたとき、改めてその言葉達に唸らされたというか。鳥肌ものだった。今年の紅白で森進一、また歌ってくれないだろうか。
作詞家の岡本おさみさんが亡くなってしまったのですね。
「旅の宿」「襟裳岬」その他
名曲を生み出して頂いて感謝です。
岡本おさみさん、亡くなったのか...。拓郎さんの落陽や祭りのあと、詩の世界観が大好きだった。今年で紅白引退される森進一さんに、紅白のトリで襟裳岬歌ってもらいたいなぁー...マッチとかいいから。
作詞家の岡本おさみ氏が死去 t.co/Jwqb9Jd3id