NAVERまとめ 魚拓
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(2020年8月4日 魚拓取得)
https://matome.naver.jp:443/odai/2150371447424706401 - 2020年8月3日 08:26 - ウェブ魚拓
今回、最初の目的地は宮城県仙台市。
JR仙台駅から、市営東西線を利用して終点、荒井駅へ向かいます。
2017年8月23日(水) 宮城県仙台市へGO!
仙台市交通局運転士の青葉あさひさん
市営東西線荒井駅構内にいらっしゃった青葉あさひさん。地下鉄の運転士で、祭りや「すずめ踊り」など地元のイベントが大好きだとのこと。趣味はバードウオッチングで特にスズメが好き。近所でスズメを見つけては色鉛筆でスケッチを行ってるって言ってました。
全国各地の鉄道で働く女性をモチーフにして、トミーテックが展開する人気キャラクター「鉄道むすめ」に、地下鉄としては初となる新キャラクター「青葉あさひ」がデビュー!!7月20日に、東西線荒井駅のコンコースに等身大パネルが登場しました!
仙台市営東西線「荒井駅」
2015年12月6日に市地下鉄東西線が開業。
駅舎内には東日本大震災の仙台市内の被害を後世に伝える「せんだい3・11メモリアル交流館」が設置されている。
荒井駅前広場の「浪分櫻」
2015年3月、東日本大震災の教訓を千年先まで伝えることを目的に、津波の到達地点周辺となるこの地に植樹された。記念碑の「浪分櫻」の文字は、伊達家18代当主伊達泰宗氏による。
市地下鉄東西線荒井駅前広場の浪分桜が満開です
東日本大震災の津波到達地の近くに浪分桜と名付けた桜を植える「はな*はなプロジェクト」による植樹式が3月3日に行われました。植えたのは、京都市の桜守16代佐野藤右衛門さんが地元より運んでくれた「祇園しだれ桜」(高さ7m、樹齢30年)、今年は咲くかと心配しましたが、見事に花を咲かせました。 2015.04.16
仙台市営東西線「荒井駅」から仙台市営バスで、終点「旧荒浜小学校前」へ。
震災遺構「仙台市立荒浜小学校」
東日本大震災において、児童や教職員、地域住民ら320人が避難、建物2階部まで津波が押し寄せた。被災した校舎のをそのまま保存し、被災直後の写真等の展示を備えて、2017年4月30日に開設した。
「ありがとう荒浜小学校」横断幕
2016年3月31日の閉校に合わせて掲げられた。
荒浜小学校は同年4月1日より仙台市立七郷小学校と統合した。
荒浜小学校「閉校記念碑」
荒浜小学校「体育館跡」
校舎西側にあった体育館は、東日本大震災の津波により大きな被害を受け、2013年に解体。
荒浜小学校では、2010年のチリ地震津波の経験を生かし、震災前に避難場所を体育館から屋上に変更、体育館に保管していた毛布などの備蓄品も校舎3階に移していた。
荒浜小学校「昇降口の津波浸水跡」
荒浜小学校「津波到達の高さ」と「1年1組教室と保健室」
荒浜小学校「案内板」
荒浜小学校「二宮金次郎像」
震災前は、校庭の南西角に置かれていた。津波に流され破損。台座ごと流され、像は東日本大震災の8ヵ月後、荒浜小学校から南西に約100m離れた場所で発見された。
荒浜小学校「校舎北側」
荒浜小学校「給食室」
荒浜小学校には、見学者用のエレベーターやスロープも備え付けられており、車いすでの見学も可能です。その際、管理事務所にお声かけいただけるとありがたいとのこと。
荒浜小学校「校舎東側」
荒浜小学校「1階」
荒浜小学校「2階」
荒浜小学校「津波到達ライン」
荒浜小学校「3階」
荒浜小学校「4階」
荒浜小学校「交流活動室」
震災前の荒浜の暮らしの様子などを伝える映像を上映。
荒浜小学校「復元模型」
「失われた街」模型復元プロジェクトによって、津波により失われた地域の様子を再現された。
荒浜地区は仙台市中心部から東へ10 ㎞ ほど離れた沿岸部の集落で、平坦な土地が直接太平洋に面している。江戸から明治期にかけて開削された貞山堀(貞山運河)が海岸線に平行しており、運河沿いに続く松の防風林が海辺の景観をつくってきた。今回の津波で海岸線から約4 ㎞ 遅延まで浸水し、約800世帯の集落が松林とともに失われた。平成元年に新築された荒浜小学校は海岸から約700mの場所にあり、地域の一時避難所として500人を超す住民が避難した。
荒浜小学校「防災展示室」
荒浜小学校「3.11荒浜の記憶」
荒浜の被災時の様子を伝える。
「体育館の時計」
津波が押し寄せた時間で止まっている。
「荒浜27時間ドキュメント」上映
荒浜小学校における発災から救出までの27時間を負った映像。
画像は、当時の様子を証言する川村孝男荒浜小学校校長。
荒浜小学校「屋上入口」
荒浜小学校「屋上」
海岸方面
南西方面
北西方面
震災遺構「仙台市立荒浜小学校」屋上から見た周辺の様子
出典元:YouTube
「仙台市荒浜小学校」は震災遺構として、2017年4月30日から震災遺構として一般公開している。東日本大震災時、児童や教職員、住民ら320人が避難し、2階部まで津波が押し寄せた。
荒浜小学校には、次々と見学者を乗せた大型バスが到着。
「被災した校舎のありのままの姿と被災直後の写真展示等により、来館者に津波の威力や脅威を実感していただき、防災・減災の意識を高める場とすることを目的に、本校舎を震災遺構として公開」している荒浜小学校。
色々な意見があっただろうが、震災遺構としてこの荒浜小学校が残されたことはよかったと強く感じられる。
「荒浜の歴史」石碑
荒浜小学校から200メートルほどのところに立つ。2017年3月に建てられた「荒浜記憶の鐘」と共に、深沼橋近くに設置された。江戸から平成にかけての荒浜の歴史が刻まれている。
「荒浜記憶の鐘」
仙台市若林区「荒浜記憶の鐘」 東日本大震災発生から6年となった2017年3月11日、除幕式が行われた。巨大な津波の大きさが実感出来るよう、荒浜を襲った津波の最高到達高13.7メートル地点が表示されている。
東日本大震災の発生から6年となった11日、宮城県内では人々が亡くなった人を思い、これまでの月日に思いをはせた。津波被害を受けた仙台市若林区荒浜地区では、犠牲者を鎮魂、追悼するモニュメント「荒浜記憶の鐘」が完成し、現地で除幕式があった。モニュメントは高さと幅が各4メートルで、深沼海岸近くに建てられた。御影石とステンレスを組み合わせて人が両手を広げた様子を表現し、青銅の鐘を付けた。近くの深沼橋の脇には、地域の歴史を伝える石碑も設けた。 2017年3月11日
荒浜地区の「偽バス停」
宮城県利府町の芸術家佐竹真紀子さんにより設置された。最初の偽バス停は2015年9月にこっそり置かれ、計10カ所に。「このバス停は偽物です。お間違えのないよう ご注意ください。」と書いてあります。
東日本大震災の津波を受け、災害危険区域に指定された仙台市若林区の荒浜地区にバス停のオブジェが出現した。一帯は更地となり、市バスの運行は休止のまま。制作した宮城県利府町の若手芸術家佐竹真紀子さんは「荒浜には誰かが来るのを待っているかのような雰囲気がある。そのイメージをバス停で表現した」と語る。作品は赤地に白い字の丸い標識と案内板をポールに取り付けたもので、本物のバス停表示板そっくり。終点だった深沼や旧荒浜小など実際に停留所があった3カ所のほか、住民団体「荒浜再生を願う会」の集会所など2カ所にも設置した。 2016年9月6日
東日本大震災の津波で災害危険区域に指定された仙台市若林区荒浜地区に、宮城県利府町の美術作家佐竹真紀子さんが設置したバス停のオブジェ「偽バス停」を巡るツアーが、震災から5年9カ月となる11日、現地で開かれる。市交通局の貸し切りバスが震災前の路線を1往復だけ走る。地区にかつて住んでいた住民らの交流会もある。「偽バス停」は本物のバス停そっくりに、停留所名や時刻表を記した円形、四角形の表示板とポールを組み合わせた作品。佐竹さんが学生だった昨年6月、「被災前の荒浜を思い出すきっかけに」と制作し、停留所跡にこっそり置いたのが始まり。 2016年12月9日
「荒浜祈りの塔」
東日本大震災の犠牲者への慰霊と鎮魂のため、2013年3月11日に建立。観音像は荒浜地区を襲った津波とほぼ同じ9メートルの高さがある。右手の慰霊碑には、犠牲者192名の名前が刻まれている。
仙台市若林区「荒浜祈りの塔」周辺の様子
出典元:YouTube
「荒浜祈りの塔」は、東日本大震災の犠牲者への慰霊と鎮魂のため、2013年3月11日に建立。荒浜地区を襲った津波とほぼ同じ9メートルの高さがある。右手の慰霊碑には、犠牲者192名の名前が刻まれている。
荒浜地区の海岸線と「防波堤」
東日本大震災の津波で大破し、国が仙台湾沿いで復旧工事を進めている堤防の9割が完成し、震災発生から5年を迎えるのを前に、5日、仙台市若林区の荒浜地区で式典が開かれた。地盤改良などで強度を高め、住民の避難時間を確保する効果が期待されている。堤防は宮城県の仙台市、名取市、岩沼市と山元町の一部にまたがり、高さ約7・2メートル、総延長約29キロのコンクリート製。震災後、国土交通省が災害復旧事業として工事し、2月末までに全体の92%に当たる約26キロが完成した。 2016.3.5
震災遺構「仙台市立荒浜小学校」とバス
仙台市営東西線「荒井駅」
「せんだい3.11メモリアル交流館」入口
市営東西線が開業した2015年12月に交流スペースが開所。翌2016年2月に展示室を含めフルオープンした。東日本大震災を知り学ぶための場として、震災被害や復旧・復興の状況などを伝える展示等が行われている。
「せんだい3.11メモリアル交流館」展示室
「みんなでつくるここの地図」展
現在開催中の「みんなでつくるここの地図」展示物。
会期は2017年7月11日~10月22日まで。
東日本大震災の記憶を伝えるため、仙台市が市地下鉄東西線荒井駅(仙台市若林区)に整備した「せんだい3.11メモリアル交流館」の来場者が18日、10万人に達し、現地で記念式があった。10万人目となったのは宮城野区の建築業佐藤隆さんと妻の国子さん。交流館のロゴマーク入りバッグやカード入れが記念品として贈られた。震災当時の様子を紹介するパネルを見た国子さんは「製油所の火災で空が明るく、においがひどい中で不安な一夜を過ごしたことを思い出した。家族は無事だったが、これからも沿岸部に出向いた時は手を合わせ続けたい」と話した。 2017年6月19日
市営東西線「荒井駅」からJR仙台駅へ。
JR仙台駅
JR仙台駅から仙石線で終点の石巻駅へ。石巻駅からは石巻線に乗り換え、本日の目的地、女川駅へと向かいます。
車窓からの「ホテル・エルファロ」
女川トレーラーハウス宿泊村「ホテル・エルファロ」は2012年12月、被災地初のトレーラーハウスの宿泊施設としてオープン。移設工事を経て、2017年8月5日からここ、JR女川駅西側で営業を再開した。
JR石巻線「女川駅」
東日本大震災の津波により駅舎や車両を流失。2015年3月21日に女川駅と浦宿駅間が復旧し、石巻線全線が復旧した。
女川駅前広場
女川駅からみた「ホテル・エルファロ」
女川トレーラーハウス宿泊村「ホテル・エルファロ」
女川町での今日のお宿はお馴染み「エルファロ」さん。ぼきにとっては1年7ヶ月ぶりっす。駅の近くで凄く便利なんすけど、以前の苦労してやっと辿り着くって感じが、なんだか懐かしく感じられるっす。
東日本大震災で被災した女川町で、トレーラーハウスを活用した宿泊村「ホテル・エルファロ」がJR女川駅近くに移転し、竣工式が3日、現地で開かれた。5日から営業する。63室を備え、最大195人が宿泊できる。バーベキューやたき火を楽しめる広場も設けた。被災事業者らが2012年12月、工事関係者らを受け入れるためオープンした仮設の宿泊施設が、本設の観光型ホテルとして再スタートを切る。ホテル・エルファロは駅から約2キロ離れた清水地区の町営住宅跡地から移転した。5月上旬から営業を休止していた。 2017年8月4日
「エルファロ」から見える女川駅舎
JR女川駅
女川駅前の商業施設
現在は、テナント型商業施設「シーパルピア女川」と観光物産施設「ハマテラス」などで構成されている。
「シーパル観光案内所」の「Wake Up,Girls!サインポスター」
Wake Up,Girls!のみなさんって、今年の2月に女川に来てくれてたんすねえ。いいなあ。
そして、絵柄はちょっちアレなんすけど、そんな「Wake Up,Girls!」の新章が、2017年10月よりTVアニメ放送開始されるっす!
仙台・宮城を舞台にした人気アニメ「Wake Up,Girls!」の新シリーズが10月からテレビ放映されるのを前に、仙台観光国際協会は仙台市内の観光スポットや名物グルメをアニメのキャラクターとともに紹介するリーフレットを作製した。JR仙台駅2階の市観光情報センターなどで配布している。仙台を出発点にアイドルを目指す7人の少女キャラクターと担当の声優の写真をあしらった。定禅寺通や広瀬川、秋保温泉といった名所に名物のずんだ餅や仙台づけ丼も豊富な写真で紹介。仙台観光国際協会の担当者は「県内外のアニメファンが仙台に興味を持つきっかけになれば」と期待する。 2017年8月24日
閉店後の「Konpo’s Factory」
ダンポルギー二でおなじみの、今野梱包さんとこの店舗。
強化段ボール製「ダンボルギーニ」
ダンボールアート 歩行型輸送機「AT–ACT」
映画「ローグ・ワン スターウオーズ・ストーリー」に登場する歩行型輸送機「AT–ACT」を、今野梱包さんが製作。現在、女川町まちなか交流館にて展示中。
ダンボールアート 映画「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」 歩行型輸送機「AT–ACT」
出典元:YouTube
ダンボールアート 映画「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」 歩行型輸送機「AT–ACT」
出典元:YouTube
映画「ローグ・ワン スターウォーズ・ストーリー」に登場する歩行型輸送機「AT-ACT」を強化段ボールで再現したオブジェが、宮城県女川町の町まちなか交流館に展示されている。東日本大震災からの復興途上の町に集客の仕掛けを作ろうと、町内の事業者らが東京で展示されたオブジェを「帰還」させた。町中心部の商業施設「シーパルピア女川」に店舗を構え、段ボール製のスーパーカー「ダンボルギーニ」で知られる梱包資材会社、今野梱包が製作。昨年12月に東京であった映画イベントに合わせ、ウォルト・ディズニー・ジャパンの依頼を受けて約1カ月半で仕上げた。作品は高さ5m、幅2.1m、長さ5.2m。 2017年5月30日
夜の「女川町まちなか交流館」前から
出典元:YouTube
歩行型輸送機「AT–ACT」が見える夜の「女川町まちなか交流館」前から、女川シーパルピア方面、そしてハマテラス周辺。
「お魚いちば おかせい」
「女川丼」
夕食は「おかせい」さんとこの「女川丼」!やっぱ美味いっす!でも、以前は東京に来てくれた時に頂いたんで、ご当地でいただくのはこれが初めてなんすよ。
「おかせい」店内の「Wake Up,Girls!ポスター」
さすが押さえてんな、おかせいさん。
「きぼうの鐘」
JR女川駅
女川町は訪れる度、美しい街が次第と形作られていく様を見せつけられる街。それは素晴らしく、都度嬉しさを感じる。が、課題は常に付き纏う。それは、どの復興を遂げようとしている地でも同様。多くの人がもっと集まるために。定住者が暮らし良い環境。それは、際立つ魅力といったものだけではない筈。
2017年8月24日(木) 今日は、宮城から福島へ!
朝の「エルファロ」
以前は、山裾にあったエルファロ。現在は駅前に移設され、利便性は格段に上がったのだけれど、あの朝の張り詰めた空気感とか、山々に囲まれているからこその騒めきだとかが無くなってしまった。そういうところが好きだったんだなあって。街が変わるということは、否応なしに景色も変わっていく。
「エルファロ」フロント
「エルファロ」フロント内
「エルファロ」の朝食
女川で水揚げされた魚に旬の魚のあら汁。そして、宮城産のご飯って、美味しいに決まってんだろ!とーぜん、おかわりしちゃいましたー。
食事の後は、自転車を借りて女川町内をサイクリング。ちょと見ないうちに、随分変わったんだなあ。
「天皇皇后両陛下行幸啓記念碑」と「皇后陛下御歌」碑
2015年3月21日に石巻線全線が開通し、女川駅から始発列車が出発した知らせを聞きになられた皇后陛下が詠まれた御歌「春風も沿ひて走らむこの朝 女川駅を始発車いでぬ」が刻まれている。その翌年の2016年3月17日、天皇皇后両陛下が女川町にいらした。
2017年3月17日、JR女川駅タクシープール近くの町有地で除幕式が行われた。
皇后さまがJR石巻線の全線運行再開を詠まれた「御歌」の石碑が完成し、17日、JR女川駅タクシープール近くの町有地で除幕式が行われた。この日は天皇、皇后両陛下が来町してちょうど1年。関係者約150人が出席し、完成の喜びを分かち合った。 「春風も沿ひて走らむこの朝 女川駅を始発車いでぬ」 建立したのは御歌碑と説明板、行幸啓碑の計3基。御歌碑は高さ140センチ、幅80センチの白御影石製で、皇后さまの御歌を金文字で刻んだ。御歌碑の両隣には、黒御影石製の行幸啓碑と説明板を設置。 2017.3.18
女川町清水町方面
以前の、女川トレーラーハウス「エルファロ」があった場所。周辺のかさ上げ工事は進み、すっかり地形が変わってしまっている。あちこちに新興住宅も見られる。
女川町女川浜大原
昨日の到着時は、中心部の真新しく立派な建物ばかりが目立った女川町だったが、新しい朝が始まると、周辺には一斉に復旧・復興の工事の音が響き始めた。嵩上げ工事が続けられている場所。むき出しの山肌。まだまだ復興半ばなのだと、新しく完成した施設を紹介するばかりのニュースでは感じ取れないだろう。
女川港沿いの国道398号線
右側の建物は「おかせい」さん
東日本大震災の津波で倒れたままの姿をとどめる「女川交番」
震災遺構として保存することが決定している。
女川町女川浜女川
「女川町地域医療センター」
下部に掲げられている横断幕には、「女川は流されたのではない。新しい女川に生まれ変わるんだ。」と書かれている。
「女川温泉ゆぽっぽ」
女川駅舎に併設。
「女川温泉ゆぽっぽ」の足湯
誰でも自由に利用できます。
駅の反対側から見た「エルファロ」。
画面奥が女川駅舎。
新しくなった女川町トレーラーハウス「エルファロ」
自転車を返し、一息ついてから出発。
お世話になりましたー。また来まーす。
女川駅舎裏側
「シーパルピア女川」
女川駅方向
「女川水産業体験館 あがいんステーション」
「女川とうがらし」
「コミュニティスペースうみねこ」さんとこの「女川とうがらし」ゲッツ!これを「なみえ焼きそば」にかけて食べんのが合うんすよねえ。
2015年4月に「コミュニティスペースうみねこ」を訪れた時の様子。
一般社団法人 コミュニティスペースうみねこ
宮城県牡鹿郡女川町高白浜高白25−2
<a target="_blank" href="https://www.onagawa-umineko.com/">https://www.onagawa-umineko.com/</a>
ここから浦宿駅を目指して歩いて行きます。
「女川町地域医療センター」
「女川町地域医療センター」
「国道398線」女川湾方面
「国道398線」浦宿駅方面
歩行者用の通路が確保されていて、警備員さんがしっかり誘導してくれています。交通路が目まぐるしく変わるのでしょう。
オープン前日の「セブンイレブン女川バイパス店」
「セブンイレブン女川バイパス店」は8月25日朝7時オープン !
女川町のマンホール
「女川いのちの石碑」
国道398号沿いの鷲神浜に建つ「女川いのちの石碑」4号碑。女川中学校生徒が1000年後まで津波の教訓を伝えるためにと、津波の到達地点よりも高いところに21基の石碑建立を行っている。2014年4月5日に除幕式が行われた。
「いのちの石碑プロジェクト」
<a target="_blank" href="https://www.inotinosekihi.com/">https://www.inotinosekihi.com/</a>
「女川町きぼうのかね商店街」
2012年4月にオープンした「きぼうのかね商店街」は現在、東に約1キロの地点に移設作業中。
「カフェごはん セボラ」
2013年5月17日に開業した「カフェごはん セボラ」さん。
2015年4月に訪れた際、営業時間外だったのに食事の用意をして頂いちゃったんすよ。ちゃんとした時にって思ってたんすけど、今日はお休みみたい。現在、同商店街は移設作業中で、9月にも閉鎖予定。色々と大変な時なんすよね。
「希望の鐘」
JR女川駅の駅前広場にあったカラクリ時計台に4つ付いていた鐘の1つ。東日本大震災の大津波により流出したが、奇跡的に1つが音の出る状態で発見。この鐘を「希望の鐘」と名付けここに設置し、これをシンボルとして「きぼうのかね商店街」と名付けた。
宮城県女川町は、東日本大震災で整備された仮設商店街「きぼうのかね商店街」を来年8月に移設することを決めた。現在出店している31店舗のうち、10店舗が移る。移設工事費2700万円を盛り込んだ本年度一般会計補正予算案が15日の町議会本会議で可決された。移設先は現在地から東に約1キロの町有地で、広さ約2500平方メートル。来年4月に着工し、プレハブ1棟を移設して2019年3月まで営業する見通し。商店街は12年4月にオープン。14年3月に閉校した女川高のグラウンドに立地する。町は来年9月に商店街を閉鎖し、17年度中に県に返還する。 2016年12月16日
JR石巻線「浦宿駅」
浦宿駅のホームにて、かき氷を食べて久しぶりに頭が痛くなった女川の夏。
ミヤコ―バス「浦宿」バス停
バスを使って石巻駅に向かいます。
旧北上川に建設中の新内海橋
2020年度内の完成を目指し工事中。現在、バスで通行中の内海橋は解体する。
老朽化に加え、震災被害を受けて災害復旧工事として新設される内海橋は、現在の橋の上流側に架橋する。石巻市中央3丁目の旧石巻署中央交番前と八幡町1丁目をつなぐ延長202mで、車道・歩道を含む道路幅は14.5m。2020年度内の完成を目指し、橋台2基、橋脚2基のうち1基が完成した。工期には、中瀬へ歩いて渡れる「新西内海橋(仮称)」の建設も含まれている。新西内海橋は県が施工し、完成後、市道新西内海橋線(仮称)として石巻市に引き渡される。延長82m、幅9.5mの歩道として、今の橋よりやや上流部に整備する。湊地区と中瀬をつなぐ橋については、石巻市が歩道橋を整備する方針。 2017.3.28
JR石巻線・仙石線「石巻駅」
「石巻市役所」
いしのまきカフェ「 」(かぎかっこ)
石巻市役所内にある高校生主体で運営している、いしのまきカフェ「 」さんとこが4月からリニューアルしてましたー。石巻特産のお茶を提供する「KAKKO TEA」を併設して、更に進化!がんばってまーす。
ちなみに本日は、お休みでしたー。
「石巻駅前交番」
石巻駅構内の石ノ森キャラたち
ここから仙台経由で、福島県南相馬市を目指しまーす。
「小高駅」ホーム
JR「小高駅」待合室の「野馬追」顔出しパネル
神奈川県の城北工業高校デザイン科1年の4人が、今年4月に小高区の小中高校が授業を再開し、避難先から電車通学をする生徒たちの為にと制作した。生徒らを指導した同校非常勤講師が自ら3月18日に小高駅構内に設置した。
小高駅への感謝のメッセージが書かれた飾り
JR常磐線「小高駅」
「牛河内第3 心の駅」
2012年10月25日に新潟県小千谷市の「NPO法人おぢや元気プロジェクト」によって小高駅前に設置された。
「双葉屋旅館」
2016年7月12日に福島県南相馬市小高区の避難指示が解除。それにともない営業を再開した。
小高での宿は、もちろんこちら!
「小高銀砂工場跡」
明治から昭和初期にかけて幅広く活躍した政治家・実業家半谷清壽が大正3年に創業した珪砂事業。小高産の珪砂は小高白銀砂ともいわれ、「ビリケン印珪砂粉」としてガラス原料や鋳物砂として出荷された。その後、輸入品の影響もあり昭和51 年に精製工場は閉鎖された。
「菓詩工房わたなべ」
現在は閉鎖中。
現在は、南相馬市原町区の原町店で営業している。
「谷地魚店」
2016年7月15日に、5年4カ月ぶりに営業を再開した。
東京電力福島第一原発事故に伴う避難指示が解除された南相馬市小高区で15日、谷地茂一さん、美智子さん夫婦の営む鮮魚店「谷地魚店」が5年4カ月ぶりに営業を再開した。初日から多くの買い物客が訪れ、店内は活気に包まれた。初日は国内産を中心にカレイやカツオ、ホッキ、サケなど約10品を並べた。2人は近所の住民や知人に笑顔で声を掛け、やりとりを楽しんでいた。美智子さんは「顔を見に、気軽に来てもらえたらうれしい」と話した。店舗での営業とともに、茂一さんが平成23年7月に始めた市内の仮設住宅などでの移動販売も続ける。同店の営業時間は午前8時から午後7時まで。水曜日定休。 2016/7/16
「火の祭」観覧場所
「相馬野馬追」2日目に行われる小高区「火の祭」の観覧場所。昨年の「相馬野馬追」で、6年ぶりに復活。
今年の火祭は、雨のため順延となって見れなかったなあちくしょう
「高島家コンクリート蔵」
昭和初期に意匠を凝らし建てられた。住宅門と堀と共に、国の登録有形文化財に答申中。あちこちに蔵が見受けられる小高の中で、ひときわ異彩を放っている。
国の文化審議会は21日、松野博一文部科学相に対し、福島市のぬる湯温泉旅館関連施設3件、会津若松市の旧鍋三本店関連施設2件、南相馬市の高島家住宅関連施設2件、石川町の有賀家住宅関連施設を含む全国の244件の建造物を登録有形文化財にするよう答申した。南相馬市小高区にある高島家住宅は、原発事故で避難区域が設定された地域にある建造物としては事故後、初めて登録有形文化財に登録される。高島家住宅の2件はコンクリート蔵、門および塀で昭和前期の建造だという。コンクリート蔵は鉄筋造りで、屋上からは相馬野馬追の「火の祭」が見られる。門および塀はレンガ造りで歴史的景観を現代に伝えている。 2017/7/22
「JAふくしま未来 小高総合支店」
2016年4月オープン。
「金性寺」
東日本大震災で破損した部分の修復に今年3月からようやく着手した。4月に訪れた際、大きくヒビが入り触らないようにと注意が促されていた塀は、現在、取り除かれている。工期は来月いっぱい迄。こちらは、同区の「大悲山の石仏」の管理も行っている。
「金性寺」本堂
金性寺では、東日本大震災以前までは毎年お盆に、同寺に受け継がれきた幽霊画の掛け軸を住民に披露していた。しかし現在、住職はこの地を離れており、夏の幽霊画掛け軸の披露は再開されていない。以前は毎年幽霊掛け軸を見に行っていたという、帰還をはたした住民の方から、また見たいとの話を聞かせて貰った。
「小高RCレーシングサーキット」
第1第2日曜日開催!
夕暮れの小高では、多くのコウモリが飛び交う姿が目立った。これも、住民が居なかった間に町中に多く住み着いてしまったからなのだろうか。
「浦島鮨」
2016年4月に、5年ぶりに営業を再開した。地元では凄っげー美味しいって評判のお店。現在、お客さんがめちゃめちゃ来てて、予約をしないと頂くことが出来ませーん。くっそー、ざんねーん。
親子で人気すし店再開 南相馬・小高区 毎日新聞
東京電力福島第1原発事故で住民避難が続く福島県南相馬市小高区で、すし店「浦島鮨」が今月、5年ぶりに営業を再開した。国の避難指示解除は早くても6月以降となり、近くのJR常磐線小高駅は閉鎖されたまま。住民の姿はまばらだが、店主の山沢茂さんは「不安定は覚悟の上」と前向きだ。「家族ですしをつまみながら笑い声が聞こえてさ。そんな光景が少しずつ増えていけばいいなってね」と笑顔を見せた。 2016年4月12日
「東町エンガワ商店」
2015年9月28日オープン。2017年4月1日より営業時間を20時まで延長し、9時~20時までの営業となった。
小高の月
松永牛乳「アイスまんじゅう」
「東町エンガワ商店」で購入した松永牛乳「アイスまんじゅう」食べてまーす。生乳51%使用の「バニラアイス」のほーは、売り切れちゃっててなかったんすから。
アイスまんじゅうでも有名な南相馬市の牛乳加工・販売の松永牛乳は新商品として加熱処理などを行い牛乳になる前の生乳51%使用のアイス「松永牛乳(株)のバニラアイス」を作った。22日から発売。同社でかつて作っていたという生乳使用率の高い昔ながらのアイスの味わいを復刻しようと企画。生乳の風味をできるだけ生かそうとバターや生クリームを加えずあえて乳脂肪分の割合が低いラクトアイスの規格で製造。やわらかな食感や喉ごしの爽やかさを際立たせた。井上社長は「牛乳製造会社として持てる技術を最大限に生かした製品。地域の特産品として名を高め南相馬の活性化につなげていきたい」と語った。2016年7月22日
私たちの地域は、2011年3月11日の大震災とそれに伴う東京電力福島第一原子力発電所の事故により大きな被害を受けました。私たちは、私たちの会社を継続することが地域の復興のために出来ることと考え、会社を継続することを選択しました。操業再開に際し最初に取り組んだのは放射性物質の検査であります。私たちは安全な食品を皆様にお届けできるよう、放射性物質の検査を、操業再開から現在まで継続実施して参りました。ホームページ開設は、検査結果を公表し購入していただく上での判断の材料にしていただくことが目的です。この検査結果のデータにより、ご購入いただく皆様が少しでも安心いただくことが私たちの願いです。
南相馬市小高区では、帰還を前提に家を新築していながら、未だに帰還を果たせないでいるといったケースもある。帰還の意思が無くなったわけではなく、その他の原因によるため、苦悩は更に深い。時間が解決するといったものでもないため、ただ無為な時間が過ぎるのみで、解決の糸口は見えないままでいる。
家屋の解体費用が出る間に申請をしておくべきだった。帰還に合わせ修繕は行っていたが後からシロアリ被害が判明、とても住める状態ではないことがわかったなど、帰還を考えている住民にとって、二の足を踏まざるを得ない事態も多々存在している。その結果、帰還事態を諦めてしまわぬような支援といったものが、いま改めて為されないものだろうか。
地元で大人気の南相馬市小高区「双葉食堂」の中華そば。実は鹿島区での仮設営業時、材料入手の関係からか、本来の味ではなかった事もあったとか。現在も大盛況で、営業開始時刻前から列が出来ている事も。そうした様子から、本当は食べに行きたいけど行ってないと言う帰還住民の方もいらっしゃいました。
南相馬市小高区の夜。少ないけれど、点在する窓の明かり。人の姿がない日中でも、以前とは変わり、確かに人の住む町の気配が感じられる。復興に伴い行われて来た家屋の解体、建設によって、吹き抜ける風の流れも変わったという。人が居るという事実は、それだけで確実に変化をもたらし得ることだろう。
2017年8月25日(金) 一部を除く避難指示解除から5ヵ月経った浪江町へGO!
小高の朝
「双葉屋旅館」と「小高駅」
「アンテナショップ 希来」と「双葉屋旅館」
「アンテナショップ 希来」は、2015年1月31日にオープン。
「双葉屋旅館」さん、お世話になりましたー。
また来まーす。
小高区のマンホール
JR常磐線「小高駅」
JR常磐線「小高駅」より、現在の列車での終点「浪江駅」へ向かいます。
「浪江駅」に到着した列車
「浪江駅」ホーム
JR常磐線「浪江駅」
浪江町の帰還困難区域を除く避難指示が3月31日に解除されたことから、4月1日より運転を再開した。
「浪江駅」
解体工事中の家屋
新庁舎建設中の「浪江消防署」
2017年5月に建設に着手。2018年春からの運用再開を目指している。
「浪江消防庁舎完成予想図」
「浪江町役場」
浪江町仮設商業施設「まち・なみ・まるしぇ」
2016年10月27日オープン。
東京電力福島第一原発事故で全町避難が続く浪江町の町役場敷地内に27日、仮設商店街「まち・なみ・まるしぇ」がオープンした。避難指示解除に向け11月に始まる準備宿泊を前に、住民交流の新たな拠点が誕生した。町が整備し、小売り、飲食、サービスの各業種から10店舗が入居した。28日に営業を始める。オープニング記念式典が行われ、馬場有町長が「帰ってきた町民が集い、食事や買い物できる場所ができた。復興に向けたシンボルとなった」と述べた。町仮設商業共同店舗施設管理協議会の阿久津雅信会長=浪江焼麺太国アンテナショップ店長=が「力を合わせて町のにぎわいを取り戻していく」と誓った。 2016/10/28
田中前交差点
「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」による桜の木
国道6号線沿いに植えられている、浪江町地区「ふくしま浜街道・桜プロジェクト 30年後の故郷に贈る」の桜の木。どれも随分大きく成長しています。
「高瀬川」
「思い出の品展示場(交流の場コスモス)」
浪江町大字高瀬字牛渡川原217
浪江町内で復旧作業を請け負っている安藤ハザマが2014年7月開設した。東日本大震災の津波で流された住民の「思い出の品」を展示し、持ち主への返還を行っている。
瓦礫撤去作業の際に見つけられる写真やバックやぬいぐるみなどの様々な品々。2016年3月まで続けられていたそうした作業で見つけられた多くの品物が、ここには展示されている。
当初から、瓦礫の中に紛れた物品の回収が指示されていたわけではなかった。
個々の自発的な行動が、やがてこの「思い出の品展示場」を開設するに至るのである。
作業員らは、瓦礫の中に埋もれた汚れきった品々を、その持ち主を思いやり取り扱う事を心掛けたという。洗浄は丁寧に何度も行われた。
幸い、浪江町を襲った津波に流された多くの品々は、他の場所へ流されることも無く、地区ごとにまとまった形で掘り起こされることとなった。
そのため、「思い出の品展示場」では、細かく地域ごとに選り分け展示することが可能となった物品も少なくない。
「思い出の品展示場」は、安藤ハザマにより運営の全てが賄われている。
当初は浪江町に届けられ、町が保管していた物品も、今ではここに運び込まれている。
町と連携を取りつつ運営を行っている「思い出の品展示場」ではあるが、その性質上、これまで他の返還事業を行っている方々から聞かされることがあった行政からの制約などを受けることはない。運営資金の捻出に頭を悩まさることも必要ないのだった。
「思い出の品展示場」では、スタッフたちが思いついた展示方法等に対するアイデアを試行錯誤し、都度、柔軟に取り入れて来た。
物品返還事業運営に伴い、特に参考にして来た事業スタイルは無いという。
すべてのノウハウは、これまでの経験から構築して来た独自のものであり、また、行政からの関与がないということで、「自分たちがどうにかしていかなければならない」のだという強い責任感が育まれていった。
それらがプラス要因となり、しっかりと形作られて来たものが、この「思い出の品展示場」であるのだと強く感じられた。
展示方法の細かな工夫、例えば壁に張り出された写真の配置では、こちらを多く訪れる年代の方への配慮として、目の高さに特徴的なものをより貼っていくなどがある。アルバムに収められた大型の記念写真類では、地域で分類されたものを、写された人物の服装などの特徴で更にまとめて、より見つけ易いように並べている。
長時間瓦礫の中にあり脆くなってきている位牌は、その一つ一つをビニール袋に入れて展示している。袋の中には欠けてしまった位牌の部分が一緒に入っているものが多く、「崩れてしまったものもその方の身体の一部であるので、それも含めて持ち主にお返ししたい」との思いからの細やかな配慮からだった。
個人情報等に関しての配慮は勿論考慮した上で、更に返却を望んでいるだろう持ち主の立場に立ち、より以上の細やかな運営を続けていきたいと話してくれた。
瓦礫撤去作業の際の、作業員らの誰に指示されたわけでもない、この未曾有の東日本大震災という大きな災禍の中にあって、自発的に沸き上がった多くの住民らを思いやろうとする精神が、現在の「持ち主の気持ちを一番に考える」という「思い出の品展示場」の運営方針にも確かに受け継がれている。
これだけの細やかな運営を続けている「思い出の品展示場」ではあるが、スタッフの数は3人のみ。これは、運営開始当初から変わっていない。
少ない人数であるにも拘らず、ここ「思い出の品展示場」は「交流の場コスモス」として、訪れる者たちを広く歓迎している。むしろ「交流の場」としての比重を大きくして行きたいのだと言う。
避難先からマイクロバス数台で展示品を見に来た方々もいた。
直接震災とは関係のない他県の方が、自分の境遇に重ね合わせて頻繁に訪れることもあるという。かつての阪神大震災の被災地から歌を届けにやって来てくれた方々もいた。思い出の品を見つけた方の喜びの様子を記して、掲示もしている。
当然、ひとりでそっと訪れる方もいる。そうした方にはあえて声をかけないようにすることもある。どんな方にとっても窮屈な場にならないようにと、心配りを絶やさずにいる。
7月には、建物入り口に、みんなが手塩にかけたラベンダーが咲き誇る。
誰でもが集える、そんな場所にしていきたい。
以前は店舗だった建物を利用している「思い出の品展示場」の入口は広い。展示場内も広く、そして明るい。こうした建物で、「思い出の品展示場」が開設できたことも良かったのだろう。
この場所に、小さな子どもが訪れたことは数えるほどしかないと言う。
これまで浪江町が避難指示区域であったことや、品々の放射性物質を考慮してのことだったのだろうとは思う。
それでも、ここに並ぶぬいぐるみの中に、自分のお気に入りを見つけられた時にきっと喜ぶだろうその姿を想像することは容易い。
みんなの「思い出の品」の間をかけ回る子どもたちがたくさん訪れることを、スタッフも待ち望んでいる。
全てのものが津波に奪われた。遺骨は見つかったが遺影がない。そうしたある方が写真を見つけられた。千切れた集合写真だが、小さいながら確かにあの人の顔が。どれほど喜ばれただろう。遺骨さえ見つからないままなど、受け入れられる筈もないことだ。
余談っすけど、「思い出の品展示場」スタッフの中には、毎年「相馬野馬追」の写真撮影にハッスルしちゃってる方がいらっしゃるっす。「思い出の品展示場」で相馬野馬追の話に花を咲かせてみちゃったり、ここはそういった感じの場所なんすよ。(花を咲かせて来ちゃいました)
浪江町内の除染、家屋解体などの復旧作業を請け負っている安藤・間は、同町高瀬の双葉ギフトで、東日本大震災の津波で流された物品などを保管する「思い出の品展示場」を開設している。沿岸部のがれき選別作業や県警の特別捜索で見つかった写真、アルバム、位牌、賞状などの記念品、バッグ、置物など約1万7000点を保管、展示している。平成26年の開設以来、約4300人が訪れ、約2000点が持ち主や家族の手に戻った。展示場スタッフの川口登さん=浪江町出身=によると、思い出の品に触れる人たちは喜びや悲しみが入り交じった複雑な表情を見せるという。 2017/2/19
「ふくしま浜街道・桜プロジェクト」による桜の木
「大堀相馬焼」看板
浪江町のマンホール
「浪江町営 大平山霊園」入口
「浪江町東日本大震災慰霊碑」
2017年3月11日、「浪江町営 大平山霊園」内に建立。
東日本大震災から6年を迎え、犠牲になられた方の鎮魂と街の復興、後世への震災の訓戒のために、町営大平山霊園に浪江町東日本大震災慰霊碑が建立されました。
「請戸小学校」遠景
ここから「請戸小学校」が望める。
東日本大震災時、請戸小学校の児童77人が、避難場所であったここ大平山を目指し、無事に助かった。
「南岳院」
詳細不明。
津波で流されてしまった「南岳院」が請戸漁港近くにあったが、こちらとの関係はわかりませんでした。
「請戸小学校」
東日本大震災の津波に襲われたままの姿を留めている。震災時、教職員に促された児童77人が避難場所である約2キロ先の大平山に向かう。途中、津波に行く手を阻まれるが、生徒らの機転により全員が無事に大平山に辿り着くことが出来た。
浪江町「請戸小学校」周囲で行われている工事の様子
出典元:YouTube
東日本大震災の津波に襲われたままの姿を留める、浪江町「請戸小学校」周囲で行われている工事の様子
浪江町「請戸小学校」の周囲
出典元:YouTube
「立入禁止」を促す掲示物
以前は侵入者が多く、黒板に勝手に文字を書かれるなどの問題が多発したため、このような柵を張り巡らし、注意を促す掲示物を掲げるようになった。
浪江町「請戸小学校」
出典元:YouTube
潰れたままのタンク
曲がったままの柵
浪江町「請戸小学校」全景
出典元:YouTube
「請戸小学校」の時計
針は3時38分を指して止まっている。
「立入禁止」を促す掲示物
現在、請戸小学校では、黒板などの劣化し易い、持ち運べるものに関しては、運び出して他の場所で保管している。
建物自体に関しても、保存という方向で固まっているという、担当者のお話だった。
ただ、どういった形で保存していくのか、どこまでの範囲のものを保存していくのかなど、具体的な検討はこれからとなる。
今も残る津波の傷跡
「浪江町農協請戸支所」
東日本大震災の津波による被害を受けたが、建物はそのまま残っている。浪江町の海岸線にはまだ、手つかずの被災建物が点在している。
浪江町請戸地区の海岸線
浪江町請戸地区の海岸線
出典元:YouTube
東日本大震災により大きな被害を受けた福島県浪江町請戸地区沿岸部。海岸線では復旧工事が進められています
8月12日に、この地で6年半ぶりに同地区の伝統芸能「請戸の田植踊り」が披露された苕野神社跡を探したが見付ける事が出来なかった。帰りに「思い出の品展示場」で以前の地図を広げて見せて貰い、撮って来た写真とつき合わせたりしながら一緒に探したが、近くを歩いてはいたようだったということがわかっただけだった。仮社殿などは、伸びた草に隠されていたのかも知れない。もっと広域に歩き回って来ればよかった。
東日本大震災の津波で本殿などが流失した浪江町請戸の苕野神社で12日、震災と東京電力福島第一原発事故後初めて、請戸芸能保存会の田植踊が奉納された。奉納は6年半ぶりで、踊り手らは古里での復活を喜び、同神社の再建を願った。仮の社殿で神事が行われた後、境内跡で中学生から社会人までの女性6人が田植踊を披露した。請戸行政区長の鈴木市夫さん=鈴木酒造店社長=ら地域住民が手拍子をしながら温かく見守った。勇壮な神楽も繰り広げられた。田植踊は江戸時代から続いており、豊漁や豊作を祈る安波祭で奉納していた。 2017/08/13
高瀬川
「思い出の品展示場」
帰りもゆっくりお話を聞かせて頂きました。
田中前交差点
浪江町仮設商業施設「まち・なみ・まるしぇ」
「浪江町役場」
JR常磐線「浪江駅」
JR常磐線線路
線路を越えて、駅の反対側へ。
「食事処いふ」と民宿「新妻荘」
2017年5月に営業を再開。民宿では町民以外の宿泊客受け入れも開始している。食事はランチ営業と、要予約の午後5時からの営業。
東京電力福島第一原発事故に伴う一部避難指示が解除された浪江町川添で営業していた「食事処 いふ」は今月、町内の同店舗で再開する。併設していた民宿も同時オープンする。請戸漁港に水揚げされた新鮮な魚介類を提供していた人気店。東日本大震災前から町内にあった飲食店のうち"古里"で再開している店はなく、町民も復活を待ち望んでいた。店主の新妻泰さんは「ここに来れば知り合いに会える。そんな店にしたい」と新たな出発に胸を躍らせる。開店を間近に控えた12日、新妻さんは改装が進む店内をいとおしそうに見つめた。「ようやくここまで来た」。再開の話を聞きつけ、既に問い合わせの電話も多く入って来ている。 2017/5/13
「食事処いふ」はまだ開店時間前。予約を入れていたとしても食事をしている時間もないので、浪江駅前前で竜田駅に向かうJR代行バスがやって来るのを待つことに。
実は昼食がまだ。ここで「まち・なみ・まるしぇ」内のコンビニで買っておいたパンにかじりついた。
「思い出の品展示場」であまりにも長居をしてしまい、浪江町内で営業している飲食店は全て営業時間が終わってしまったのだった。
「まち・なみ・まるしぇ」内のコンビニも閉店は17時。国道6号線に面したコンビニでも18時までの営業と、浪江町だけで生活物資を揃えるとなると難しい状況。
それでも、町内で営業する店舗の数は増えて来ている。普通に町内を歩く帰還した住民の姿も見かける。
これから確実に、人の行き来は増えていく事だろう。
代行バス内から見たJR常磐線「浪江駅」
代行バス内から見た「思い出の品展示場(交流の場コスモス)」
「思い出の品展示場」では、うまく言葉に出来ない力強さを感じた。
辺りには、持ち主の見つからない品々が並んでいる。もしかしたら、その持ち主の方はもういないかも知れない。でも確実に、これらの品の中には、誰かの笑顔を引き出すことが出来るものがあるのだった。
この場所では、静かに時を過ごすことが正しいのであるのだろうか。または、楽し気に時を過ごすことこそが正しいのだろうか。
そのどちらでも構わないのだろう。そして、それがどんな形であったとしても、「思い出の品展示場」であり「交流の場コスモス」であるここは、受入れてくれることだろう。
だからこそ、初めて足を踏み入れたにもかかわらず、妙に居心地の良さが感じられたのだった。
ここは、交流の場であるということに重きを置いているのだと、スタッフの方は話してくれた。
その呼称をつける際に思い付いたのがコスモス。浪江町の花だった。
浪江町請戸地区の沿岸部を訪れた後で、改めて、震災前の現地の様子を写した写真を眺めてみた。
鈴木酒造店の周囲には家々が連なり、高い木々に覆われてもいた。
当然、家々が立ち並ぶその場所からは、海岸線は見えない。
請戸地区に実際に住んでいた者でも、いまの状況で自分の家屋の場所を見つけるのは容易ではなかったと聞いた。無理もない事だろう。面影が無いどころではなく、文字通り何も無くなってしまったのだから。
浪江町の本当の復興は、いま始まったと言えるかも知れない。
これからまた、長い年月が必要とされることだろう。
人の営みというものは、容易に失われるだけの弱いだけのものでは決してないことを思い知らされてきた。
いずれ浪江町にも必ず、復興を遂げたと言える時が訪れる事だろう。
また来るぜ、浪江町!
おしまい