真田信繁とは
関ヶ原の戦いでは上田城で徳川秀忠の軍と戦った
父と共に策を練り、3万以上の兵力を持つ秀忠の軍に勝利した
大阪の陣では真田丸という砦を立てて、幕府軍を苦戦させた
夏の陣では真田丸が無くなり、家康の陣に突撃した
多くの敵を撃破し、家康を追い詰めたが逃げられてしまう
最後は寺で休んでいる所に敵将が現れ、首を討たれた
日本人はなぜ真田信繁に魅力を感じるのか。その答えはひとえに信繁の生き様にある。いかなる大敵であっても、臆することなく挑んだ「六文銭」の誇り。
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真田昌幸 信繁の父
確かな実力と才能に恵まれ、当時から名将と名高い真田昌幸。生まれる時代や場所が違っていたら、もしかすると天下を獲ることがあったのかもしれません。
それだけに、幽閉中に寂しく息を引き取った最期を想像すると残念でなりません。
幸村は、名将である父から多くを学んでいたことでしょう。幸村が築きその戦略が有名になった「真田丸(さなだまる)」も、真田家独特の戦法だったと言います。
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真田信之 信繁の兄
戦後、敗将となった父弟の助命を家康に嘆願し、父との訣別の意味で名を「信之」に改めた。忠勝や井伊直政の働きかけもあって、父弟二人は紀伊国高野山九度山に流罪・蟄居で済んだ。
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敵対関係になっても弟と父を助けた
井伊直政
徳川四天王の1人で、最前線で戦うことも好む
自分にも部下にも厳しい性格だった
常に徳川のことを考えて行動している
信繁の助命に反対すると思われたが、意外にも助命に賛同した
大谷吉継 義父
竹林院(ちくりんいん、生年不詳 - 慶安2年5月18日(1649年6月27日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。大谷吉継の娘[1]。真田信繁の正室[2]。
子に信繁の四女・あくり(蒲生郷喜室)、嫡男・大助(真田幸昌)、次男・大八(片倉守信)、六女・阿菖蒲(片倉定広室)、七女・おかね(石川貞清室)[1]。
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信繁の死後、娘たちは大名の嫁になり真田の血を守ることができた
子の大谷吉治は関ヶ原の戦い後に浪人となり、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では義兄弟に当たる真田信繁らとともに大坂城へ入城し慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で福井藩主・松平忠直の軍勢と戦い、討死した。
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伊達政宗・片岡小十郎 信繁の子供たちを匿う
片岡小十郎は伊達政宗の家臣
政宗に1番信頼されており、軍師としても活躍した
「真田幸村」「伊達政宗」は「大阪夏の陣」にて
「道明寺の戦い」「天王寺の戦い」と激しく戦いあいましたが、
後に「真田幸村」の子(次男)を
「政宗」「片倉家」がかくまい「仙台真田家」をおこし
その命脈を残すなど良い関係でありました。
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上杉景勝 信繁を人質にしていた
上杉景勝は、徳川家に領地を脅かされていた真田家に助けを求められます。
それに伴い真田幸村が人質として送られてくると、「人質」という扱いではなく「客将」として迎えています。
当時二十歳にも満たない若武者であった真田幸村の才能を見抜き、武将として迎えたとも言われています。
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徳川家康 大阪の陣で信繁に追い詰められる
大坂冬の陣が終った後、徳川家康は真田信繁に対して「10万石を与えるから味方になるように」と呼び掛けています。
真田信繁がこの提案を一蹴すると今度は「一国を与えるから味方になるように」と呼び掛けています。
当然、真田信繁はこの提案も一蹴し、大坂夏の陣に突入をしていきます。
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西尾宗次 信繁を討ち取った男
幸村の最期は安居神社でした。疲労(深手を負っていたという説も)で勢いに衰えが出た頃、幸村が体制立て直しと休息のため近くの安居神社にいたところを敵兵・西尾宗次に見つかり、槍で突かれて戦死。享年49でした。
幸村の最期にはこんな逸話もあります。安居神社で休息していた所を松平忠直隊の鉄砲隊にいた西尾久作が見つけ、精根尽き果てていた幸村は西尾に「手柄にせよ」と自ら首を差し出したというもの。
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豊臣秀吉 信繁を気に入っていた
真田家は豊臣秀吉に臣従して自立。信繁は大坂城の秀吉のもとに人質として差し出された。後に秀吉の側近だった大谷吉継の娘を正室に迎え、豊臣姓を下賜されるなど、秀吉には厚遇されたらしい。
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石田三成 信繁を信頼していた
色んな武将に嫌われていたが、豊臣を想う気持ちは本物だった
信繁を信頼しており、信繁も石田三成とよく交流していた
石田家と真田家には、姻族関係があります。昌幸の娘・於菊が、石田三成の妻の従兄弟・宇多頼次に嫁いでいます。しかし、それ以前にも、真田家と石田家には深いつながりがあったとする説があります。昌幸の正室・山手殿との関わりです。
大阪の陣では三成の意志を受け継ぎ、家康と戦う
直江兼続 信繁の恩人
人質である真田幸村の高待遇は、直江兼継による配慮でした。
「上杉と真田は仲間になったのだから、人質は必要なく同じ仲間として迎える」
という彼の考えによるものだったと言われています。
握手
領土拡大のための戦は行わず、関東の治安をつかさどる関東官領として順じた名将・上杉謙信(うえすぎけんしん)。
その上杉謙信からつづく、「利得ではなく義を重んじる」上杉家の信念を、直江兼続もきっと受け継いでいたのでしょう。
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