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大阪の陣

徳川軍や連合軍が大阪城を包囲!

豊臣軍は圧倒的に不利だが、武将達にとっては最後の見せ場だった

徳川方の軍はエリートばかり

西国無双の立花宗茂、奥州王の伊達政宗、本多忠勝の息子、幸村が世話になった上杉軍など

中には幸村の甥まで参加している

真田幸村 家康の陣に突撃する

真田丸によって戦いが有利に進む

実は、難攻不落の大阪城と言われていましたが、唯一弱点が存在していました。

それが、他でもない平野口でした。

平野口は、大阪城の南方にある地域ですが、そこには空堀しか存在せず、ただのだだっ広い平野となっていました。

極端に言えばがら空き状態とも言える場所で、大阪城を攻め落とすならここしか無いという話も…

そんな弱点ともいうべき平野口を守るために真田丸は築城されたのです。



実際に、徳川軍も平野口が弱点であると見抜き、2万5000という大群を率いて攻めてきましたが、この真田丸と幸村の戦略で守りぬきました。

出典:真田丸ネタバレ情報館

和睦後、真田丸を失ってしまう

和睦の条件として、徳川家康は「大坂城の外堀」と「真田丸」の破壊をつきつけました。

「外堀」は大坂城を”無敵の要塞”と化している大きな要素の一つであり、それを失った大坂城は丸裸になることになりました。
さらに徳川軍を苦しめた真田丸をも失い、大坂城は戦う能力の多くを奪われてしまいました。

出典:さなコレ

最後の覚悟を決めて家康の陣に突撃

やがて豊臣軍にはわずかな戦力しか残されておらず、「もはや奇襲によって徳川家康を討つしかない」という決断にいたります。

真田幸村はこの奇襲隊に加わります。
部隊の装備を赤で揃えた「真田赤備え」隊を編成、諸将と連携して家康本陣への突撃を敢行します。

突撃を受けた徳川家康は、自ら死を覚悟したほどで「俺はしぬ俺はしぬ」と酷く狼狽したと言います。

甲冑,鎧,十文字槍

しかし多勢に無勢、奇襲隊は敵に包囲され殲滅(せんめつ)させられてしまい、ついに真田幸村も討ち取られてしまいます。

この戦いの様子を知った人々により、真田幸村はのちに「日本一の兵」と評されるようになっていくのです。

出典:さなコレ

現代で人気者となる

「日本一の兵」と謳われるほどの知謀をもち、天下人・徳川家康を幾度も苦しめ、それにもかかわらず大坂の役では”無能な”首脳陣のために苦しい戦いを強いられ、最後は寡兵を引き連れ家康を追い詰め、討ち死にする。
そのドラマチックすぎる人となりと生涯、そして最期。
天下人を追い詰めるところなんかにも物語の主人公にふさわしい魅力が感じられます。

出典:真田幸村の人気の理由を徹底分析! | ひすとりびあ

最強と呼ばれた勢力【島津軍】に高評価される

島津忠恒が記した「真田日本一の兵」という言葉は、世間に大きく広まることになります。

それは当時、時の権力者に対抗する”庶民のヒーロー”的な存在となっていた真田幸村のイメージに、ぴったりと当てはまったのかもしれません^^

出典:さなコレ

毛利勝永 豊臣への恩を返すために参戦

豊臣秀吉の黄母衣衆を務めた譜代家臣・森勝信の子として尾張国にて生まれ、豊臣秀吉の九州征伐後に豊前国内に父・森勝信が10万石を拝領した際に、豊臣秀吉のはからいにより毛利輝元の許可をとった上で、森勝信父子は毛利姓へと改姓することになり、毛利勝永となった。

ニコニコ大百科

徳川の主力を次々撃破する

大阪の陣での活躍も凄まじく
大手として本多忠朝、小笠原秀政を討ち取り
酒井家次、本多忠純、榊原康勝を撃破し
その後、8層もの部隊を突き破り徳川家康の本陣に突入したとされます。

搦め手の真田幸村が戦死し突撃は終わりますが
その後も難しいとされる撤退戦を見事にこなし
追いすがったかの有名な藤堂高虎隊の部隊に
大打撃を与え撤退したという伝説的な活躍をしたとされます。

出典:ヤフーの知恵袋

幸村が死んだ後も戦い抜く!

後藤又兵衛 関ヶ原では家康側だった

身長が180cmもあり、戦国時代では巨漢だった

タイマンではかなり強かった

体中に53箇所もの傷跡が残っている。
・関ヶ原では石田三成隊の大橋掃部という荒武者を討ち取った。
・黒田家を辞したあと、その豪勇ぶりを欲しがる大名が多数いた。
・大坂の陣でも活躍。
・大坂の陣の時、腰を撃たれたが、それでも槍を持って敵を待ちうけようとした。

出典:関ヶ原ブログ

大阪の陣では

翌年5月、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて、大和路の平野部の出口・国分村での迎撃作戦の先鋒として2,800の兵を率いて、6日の未明、平野郷から出陣した。しかし、徳川方先鋒大将の水野勝成が率いる部隊が、既に国分村まで進出していた。

次善の策として、中間にあった小松山に布陣し、寡兵ながらも抜け駆けしてきた奥田忠次(奥田忠高の子)を討ち取るなど、孤軍で奮戦[15]し賞賛された[16][17][18]。しかし、後続の薄田兼相、明石全登、真田信繁らの軍が霧の発生により到着が遅れ[19][20]、逆に伊達政宗の家臣片倉重長率いる鉄砲隊など、10倍以上となった相手に対し、基次は山を降りての展開・突撃を敢行し、乱戦の中に討死した[21]。享年56。

出典:Wikipedia

長宗我部盛親 藤堂高虎の軍を破る

四国の覇者・長宗我部元親の四男

京都で寺子屋を経営するが大阪の役が始まると牢人として参戦。大坂冬の陣では真田信繁と共に真田丸の戦いで徳川軍に出血を強い、大坂夏の陣では最大の激戦として名高い八尾・若江の戦いで藤堂高虎隊を破っている。

大阪城が落城すると再起を図って逃亡するも、京都八幡(現在の京都府八幡市)近くに潜伏していた所を発見され五条河原にて斬首、首は三条河原に晒された。気の毒なくらいに運のないお方である。

出典:ピクシブ百科辞典

最後は命乞いをする

捕らわれても盛親は、「自分が負けなければ、豊臣側の勝利で終わった!」と、徳川側の勢力の前でも、不遜な態度を全く隠そうとしなかったが、自らが死ぬ事になれば長宗我部家の再興は永遠に叶わないものとなってしまう事も分かっていた盛親は、なんとしても生き延びるべく「出家をするから命だけは見逃してくれ!」と、恥も外聞も捨てる形で助命の嘆願をする。


しかし、盛親の執念深さを見抜いていた家康は、ここで盛親の命を助ければ、必ず戦国時代の終わった世の災いになると判断。

関ヶ原、大阪の陣と、2度にも渡って敵対された事もあって、結局盛親の助命は認められず、最後は同じく捕らわれた秀頼の嫡子である豊臣国松と共に、京都の六条河原にて、斬首刑に処せられ、三条河原で晒し首にされた。

出典:ピクシブ百科辞典

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