家康はなぜ秀忠を将軍にしたのか?
家康は2年しか将軍をやっていない
家康は秀忠の政治力と従順、文治を買って後継者にしました。戦国は家康が終わらせる、だから幕府の体制固めと太平の世の制度作りと整備を任せる上では信任していたはずです
出典:ヤフーの知恵袋
戦としての才能は無いが将軍としての才能はあった
父の言うことをしっかり聞いた
秀忠は、父の教えを徹底的に守った。自分は神君家康の後継者であり、この国の統治者であることを明言し、外交交渉においても国家の存立を脅かす外国の勢力も遮断した。
秀忠は恐妻家だが有能だった
妻のお江は美人だが少し気が強かった
それに嫉妬深いため、側室が持てなかった
家康は妻が沢山おり、13歳の妻もいた
2代将軍とになって徳川幕府のリーダーとして手腕をふるった秀忠は、幕府の土台をつくるさまざまな業績を残し、有能な政治家ぶりを発揮しています。
また、真面目で実直な性格や、とても恐妻家だったなど、ちょっと微笑ましい人間像を伝えるエピソードも残されています
家康ができないことをした!
城を修理しただけで、領土を没収され蟄居を命じられた
蟄居とは家に閉じ込めておくこと
譜代大名にも厳しく、有能な浪人は大名として復権させる
弟にも容赦しなかった
自分に従わない弟の松平忠輝を改易した
新しい法律を作り大名と幕府の上下関係をはっきりした
法律の内容は
・大名に余計な金を使わせ、刃向えないようにした
・大名の妻を人質として江戸に住まわせた
・城を作る時や修理する時は必ず届を出す
など
ちなみに伊達政宗は一国二城が許されていた
武家諸法度も、禁中並公家諸法度も、秀忠が将軍の時代に作られています。「どうせ家康がやったんだろ、秀忠なんてボーツと見てただけだろ」というのは、偏見もいいところです。
もちろん創業以来の優秀な家臣に囲まれていたからでしょうが、それと衝突せずに上手く仕事してもらう、これってものすごく難しいことなんです。
たいていの「デキる二代目」というのは、力んで自分の色を打ち出そうとして、家来と衝突しして自滅していくんです。
江戸幕府ができたのが家康のおかげなら、江戸幕府が二百六十年つづいたのは秀忠のおかげです。
出典:ヤフーの知恵袋
1番嫌っていた真田信之はなぜ改易されなかったのか?
上田城の戦いで真田親子に大敗して、真田嫌いになった
むしろ加増されている
1622年の移封。真田信之は信州上田から信州松代へ移封を命じられます。
石高こそ、それまでの10万石から13万石に加増になったものの、松代は同じ信州でも縁の薄い土地。
この移封は、徳川家康の時代からの流れで真田家をつぶすことはできないけど、真田家に意趣返しはしたい。
そんな徳川秀忠の心境が現れた領地替えだとも考えられています。
もちろん真田信之も徳川秀忠の心境は分かっています。そのため、徳川家康の代以上に、真田信之は徳川秀忠に熱心に仕えたとも言われています
出典:気になる話題 アラカルト
秀忠は信之の能力を高く評価していた説もある
幕府が続くように貯金していた
あまり贅沢せずにお金を貯めていた
しかし家光が貯めた金を使いまくる!
家光は将軍の権力・財力を見せつけようとしたのでしょうが、祖父(家康)、父(秀忠)が蓄えた金を湯水のように使いまくったということは、将軍の世継ぎとして江戸城内で何の苦労もなく育ってきたためであり、人並み外れた金銭感覚をもったボンボンのなせる技というものでしょうか。
出典:ヤフーの知恵袋