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目次

1徳川秀忠とは

2歴史では真田信之を嫌っていた

3実際、秀忠は信之を嫌ってはいなかった

4秀忠が嫌っているのは元豊臣の大名たち

5秀忠は真田信之を高く評価していた

6家康も信之を高く評価していた

7徳川の家臣たちも信之を信頼していた

8真田幸村は、江戸時代から英雄になった

9信之を松代に移動させたことが幕府滅亡に繋がる【真田丸の最後】

徳川秀忠とは

家康から徳川幕府を託された
秀忠は真面目な男で、父の期待に応えるために日々頑張っていた

しかし戦ではなかなか良い結果を出すことができなかった

戦後は幕府の基礎を作るために生涯を尽くした

関ヶ原に遅参したこと、生涯を通して大した武勲を挙げたことがないこと、恐妻家であったこと、父親が偉大すぎることなどから、とかく地味で、あまり注目されることの無い人物である。

が、公家諸法度・武家諸法度を制定し、(家康には出来なかった)豊臣恩顧の大名を次々に改易して幕府の基盤を固めたことは評価すべき点であり、決して「バカ息子」ではない。むしろ偉大すぎる父親に追いつこうとクソ真面目に頑張っていたらしく、そんな点に人間らしさを感じたりする。

出典:ニコニコ大百科

歴史では真田信之を嫌っていた

真田信之について
真田幸村の兄で関ヶ原の後、九度山に蟄居させられた父と弟に仕送りをしていた

幕府についたのは真田の血を残すためである

真田信之の身長は185cmだったと言われています。
当時の男性は155㎝ぐらいが多かったので、信之は体格に恵まれていた

徳川秀忠は第2次上田合戦で真田昌幸・真田信繁親子に大きな恥をかかされています。真田信之に直接の関係はありませんが、徳川秀忠は真田氏に対して遺恨を持ち続けていたと言われています。

それが具体的な形となって表れたのが1622年の移封。真田信之は信州上田から信州松代へ移封を命じられます。

石高こそ、それまでの10万石から13万石に加増になったものの、松代は同じ信州でも縁の薄い土地

出典:気になる話題 アラカルト

秀忠は信之を嫌ってはいなかった

秀忠は将軍だし、そんなに器は小さくないと思う

むしろ信之を優遇している
1番優遇されているのは伊達政宗
城を2つ持つことを許されている

私は秀忠は信之を嫌っていなかったと思うんです。

嫌っていたら、外様大名である真田家の江戸城中での控え座敷を、譜代大名の控え座敷である帝鑑の間になんかしなかったでしょうし、
隠し子を信之の妹婿である保科正光に養育させるなんてこともしなかったでしょうからね。

出典:Yahoo!知恵袋

秀忠が嫌っているのは元豊臣の大名たち

秀忠は豊臣家の大名たちに言いがかりをつけて次々と改易した

改易した理由は、幕府にとって危険な芽を摘むため

秀忠は外様大名23名を改易したが、その中心は豊臣系大名であり、特に豊臣色の強い福島正則を半ば強制的に改易としたほか、最上・蒲生・田中など大大名が改易された。

出典:歴史の勉強

秀忠は真田信之を高く評価していた

嫌っていたらこんな重要拠点を任せないだろう

信之だからこそ任せたと思う

俗に、秀忠は関ヶ原で自分を遅陣させた真田を恨んでおり、真田信之に対する松代転封は真田への嫌がらせだ、なんて言われますが、信之以前に松代には、松平忠昌(家康の孫)、酒井忠勝(徳川四天王忠次の孫)が封じられており、幕府にとって重要な要衝の地であると認識されていたことが解ります

つまり俗説とは異なり、徳川秀忠は真田信之を非常に高く評価し、信頼していたと見ることができます。

出典:.togetter

秀忠はこんな人物を高く評価している

・忠誠心がある
・幕府の役に立っている
・法令をしっかり守っている

信之は全部満たしている
実際こんな人物は改易されなかった

家康も信之を高く評価していた

家康は信之を信頼していたから、秀忠の隊に信之を配置したのだろう

上田城の合戦では、信之は秀忠を守りきることができた

そこから秀忠は信之を信頼したと思う

重臣・本多忠勝の娘・小松姫との縁組をまとめて信幸を徳川の一員にとりこむことにしました。

豊臣秀吉の提案もあったといいますが、家康も信幸と直に会って気に入ったといいます。このとき、小松姫をいったん家康の養女にして信幸に嫁がせました。つまり、信幸は徳川家と親戚になったということになるのです。

出典:真田信幸・兄は弟以上に活躍した戦国武将だった

徳川の家臣たちも信之を信頼していた

本多忠勝
生涯57回の合戦に参加した凄腕の武将
一度も傷を負っておらず最強の武将と呼ばれている

信之は、忠勝の娘と結婚した
忠勝は信之を高く評価しており、仲が良かった

そして忠勝の長男とも関係が良好だった

井伊直政
徳川家康への忠誠心が1番高く部下に厳しい井伊直政は、真田信之を高く評価していた

おそらく徳川にとって役立つ人間と判断したのだろう

意外にも幸村の助命に賛成していた

東軍についた真田信幸が「わが戦功に代えて」とばかりに、信幸の妻・小松殿の父である本多忠勝に父と弟の助命嘆願を懇願します。忠勝もこの願いを受け入れ、家康に直談判して助命を懇願するも、断じて許すことのできない家康はこの助命嘆願を一蹴。信幸に義理を立てるために家康に反抗するかもしれないと危惧した井伊直政と榊原康政も忠勝に加勢、井伊と榊原の「もし真田父子を処刑すれば、信幸も自害するかもしれない。

そうであれば忠勝は黙ってはおらず、仲介した自分たちも面目が立たなくなってしまうので、当家を去ることになります」と迫ったため、これに参った家康は不本意ながら真田父子を助命し、高野山に追放処分とします。

出典:Yahoo!の知恵袋

優秀過ぎて隠居させてもらえなかった?

老境に入った信之はしばしば隠居願を幕府に出していたが、その度に酒井忠世や酒井忠勝から将軍・徳川家綱が幼少なので、隠居せずに幕府を支えて欲しいと慰留され、結局91歳になるまで隠居できなかった ...

出典:Wikipedia

真田幸村は、江戸時代から英雄になった

最後まで豊臣のために奮戦した姿は敵にもかっこよく見えた

家康と秀忠は幸村の忠義と強さに心を打たれ、講談を許した

真田幸村―。江戸時代、庶民に広く親しまれた軍記物や講談などで創作された名前にもかかわらず、今もその通名で語られることが多い戦国武将、真田信繁。大坂の陣の劣勢下でも孤軍奮闘し、天下にその武名を知らしめたことは、あまりに有名である。

出典:大坂城炎上! 真田幸村最期の戦い

信之を松代に移動させたことが幕府滅亡に繋がる

真田丸の終わりに佐久間象山の名前が出てきました。
徳川幕府崩壊のキッカケを作った人らしいです。

佐久間象山は倒幕思想の持ち主ではないですが、吉田松陰ら志士に多大な影響を与えた人物です。

真田信之の松代藩出身であり、戦国の終わりの象徴である真田がやがて仇である徳川の世を潰すのにも影響を及ぼしたという時代の繋がりを表現したのでしょう。

出典:Yahoo!の知恵袋

緋村剣心のモデル【河上彦斎】に暗殺される

この佐久間象山の暗殺を決行したのが、河上彦斎(かわかみげんさい)・・・

冒頭に書かせていただいた通り、幕末に「人斬り彦斎」と恐れられた彼ですが、確実に彦斎が斬ったとわかっているのは、この象山一人です。

出典:今日は何の日?徒然日記

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