▼「プログラムさえ組めば遊べる。プログラムの組み方さえ覚えれば自分でゲームが作れる。」とパソコンに夢中になった
1982年6月に発売の記念すべき創刊号
マイコンBASICマガジン(マイコンベーシックマガジン)は、電波新聞社が1982年から2003年まで刊行していたホビーユーザー向けパーソナルコンピュータ(パソコン)関連雑誌。略称は「ベーマガ」。
1982年6月に発売の1982年7月号で、『ラジオの製作』から独立する形で創刊された。
▼マイコンBASICマガジンに載っているプログラムを組めばゲームで遊べると当時の子供たちや大人たちの話題に
当時のプログラムの一例
もちろんパソコン雑誌だから新製品の紹介のページもあった。
コモドールのVIC1001を持っていましたよ。今では20年以上起動していないけど、今でも家にありますよ。
当時の特色として機種ごとにプログラムが紹介されていた。
今でこそOSはWindowsかMacで2つに大きく分かれるが・・・・
同じNECのパソコンでもPC6001とPC8001ではまったく違っていた
PC8001ではPC6001のプログラムは使えなかったのである。その逆もしかり。
松下のJR100とJR200も見た目は似ているがまったく互換性はなし
シャープのMZ2000とNECのパソコンでも当然互換性はなし
プログラムが肝なのでバックナンバーも売り切れてしまい、総集編のマイコンBASICマガジンDELUXEも発売された。
▼当時は月刊マイコンやI/Oなどもあったが・・・・・
月刊マイコンやI/Oは小学生からすれば高貴な存在で、高いパソコンのプログラムしか載ってなかった。それでもシャープのX1が家にある同級生なんかは買っていたけど・・・・
しかもBASICよりも高度なマシン語がメインだった。
▼当時のパソコンの一例
NEC PC6001
PC6001の起動画面
パソコン入門のマンガ「こんにちはマイコン」
PC6001での使用を前提に書かれていた
こちらは「こんにちはマイコン」の2巻
簡単なゲームのプログラムが組めるように書かれていた
おまけでついていたプレート
これも家にあったな
「こんにちはマイコン」の一部
キャプテンシステムも紹介されているが・・・・・
キャプテンシステムは消えて、代わりにインターネットが普及した。
▼当時のパソコンゲームの画像
当然、今のPS3やPS4のレベルには及ばない
当時のPC6001の広告
1981年発売のパソコンPC-6001の未開封品を開けました(動画)
出典元:YouTube
この時代に未開封品のPC6001なんかあったんですね・・・・・
▼マイコンBASICマガジンに度々プログラムを投稿する当時高校生の森巧尚、高橋はるみの両名は注目の的
森巧尚氏
高校生にしてBASICを完全にマスターして本まで出せるとは完全にスーパー高校生ですよ
1980年代は電波新聞社が発行するパソコン雑誌『マイコンBASICマガジン(以下『ベーマガ』)』に創刊初期からベーシックマスターを使用したゲーム作品を投稿にて発表する。
。後に、高橋はるみをモチーフとした、自身初のPC-8001対応作品である「STOP!はるみちゃん」を同じく『ベーマガ』にて発表(ちなみに当時の記事も先に高橋が執筆した記事のパロディ)。
FM7だけでなくPC-6001mkIIの本まで出していた。
他にも色々出していた。
この一作がきっかけとなり、以降は高橋が所属する「フォーサイト企画部」に森も参加、不定期に『月刊マイコン』、『ベーマガ』に記事を執筆する。また、パソコンゲーム関連の書籍を発表するようになる。代表作は『TARGET』(PC-8001、月刊マイコン掲載ゲーム)など。
高橋はるみ氏
1980年代に当時のパソコン用のBASICを使用したゲーム作品を書籍、雑誌にて発表。後に不定期に『マイコンBASICマガジン』に寄稿、また、同誌の増刊号ではパソコン紹介のレビュー記事を執筆した。
パソコンを「○○(機種名)くん」と表現するなどの独特の書き回しや、「現役女子高生プログラマー」という触れ込みがあったことなども話題となった。
『PC-8001 はるみのゲームライブラリーPartII』では、日中高校に通いながら夜間に1画面プログラムを一日3本のペースで作り(さらに毎日日記もつけて)、途中発熱に見舞われながらも(学校は休んでもプログラムは作り続けた)三週間で63本のゲームを作り上げるという偉業を成し遂げた。
大衆的なパソコンゲームの関心が雑誌投稿などによる自作プログラムの発表作品から、アーケードゲーム、テレビゲーム、市販ソフト等へと主軸が遷移するとともに自然消滅的に活動を停止している。
高校生ながら相当稼いでいたはずだ
高橋はるみの通っていた高校は校則が厳しく、アルバイトをしていることがわかっただけで退学であったが、当人の原稿料や印税などの収入が、どう処理されていたのかは明らかにされていない。
▼おそらくこれがきっかけでプログラマーになった人も多いだろう
当時はIT業界への登竜門として位置づけがされ、実際このプログラム投稿者がそのままコンピューターゲームやアプリケーションソフトウェアのプログラマとなった例も多く、また同誌によって育ったゲームライターも少なくない。
こういった「ベーマガ卒業生」の代表格としては、ウルフチームに就職しソルフィースを製作したBug太郎がいる。
I/Oの投稿作品の中にはパソコンゲームとしてカセットテープで販売された物もある
読者投稿プログラムをコンパクトカセットテープに収録し、COMPAC(コムパック)というブランドにより3,000円程度でパッケージ販売も行った。プログラムの作者には1割から2割の印税を支払っていた。
プログラムの作者には1割から2割の印税を支払っていた。
当時高校生だった中村光一が投稿で得たロイヤルティ収入は130万円を超えていたという。
当時もパソコンゲームの販売はされていたがCDでもカートリッジでもなく”カセットテープ”での販売だった
当時はこれがまた新鮮でしたね
▼そして時代も変わる・・・・・
1983年7月15日 ファミリーコンピュータが発売
ファミリーコンピュータ (Family Computer) は、昭和58年(1983年)7月15日に任天堂より発売された家庭用ゲーム機。メーカー希望小売価格は14,800円。
パソコンのようにプログラムは組めないがゲームカートリッジを差し込めばゲームセンターと同等のゲームが楽しめるのである。
ゲームセンターでお金を出して遊んでいたゲームが家でできる。
しかもプログラムを打ち込むことは当然ない。カートリッジを挿せばゲームができるのである。
ゲーム機本体は14800円。ゲームソフトは5000円以下。
ファミコンは一大ブームになった。
高橋はるみや森巧尚のようにプログラムをマスターしゲームを作りたいが、ほとんどの子供たちはそれができないのである。
マイコンBASICマガジンのプログラムを打ち込んでも打ち間違えてエラーが出たりするとストレスが溜まるんですよね。
マシン語なんかもってのほか。
その後パソコンはMSXが登場
その後、Windows95の時代へ
windows95の時代に再びパソコンを始めました。しばらくぶりに書店でベーマガを立ち読みしてみたけど、完全に勢いはなかったですね。
そしてついに休刊へ
そして1996年当時28万6000部あった発行部数は、2003年には8分の1程度まで減少してしまい、ついに2003年4月8日に発売された2003年5月号をもって休刊となった。
休刊する事実は、休刊号発売のおよそ半月前である2003年3月25日に公式サイト上で発表され、ITmediaなどのIT系ニュースサイトが一斉にニュースとして取り上げた。
▼後書き・・・・・・
実は19歳の頃に粗大ごみだったPC-6001mkIIとPC-8001mkIIをもらったんですよ。電源も入りました。これがとてもうれしくて子供の頃に戻ってプログラムをやたらと打ちまくりましたよ。とてもファミコンのゲームには及ばなかったけど、これで完全燃焼しました。いい思い出です。今でもこの2台は家にありますよ。他の壊れたWindowsのノートパソコンなんかは捨てているのにね。
BASICのMZ2000をWindowsで動くように改造するというサイトを発見して感動のあまりNEVERまとめでまとめていました。今回は追記の上、matomeH…BASIC、SHARPなど。