▼1973年7月20日 ドバイ日航機ハイジャック事件が発生
ハイジャックされた日本航空 ボーイング747-246B (JA8109)
ドバイ日航機ハイジャック事件(ドバイにっこうきハイジャックじけん)は、1973年7月20日に発生した日本航空機に対するハイジャック事件である。
1973年7月21日午後11時55分頃、パリ発羽田行き日本航空ジャンボ機404便(小沼健二機長 乗客123名)が、アムステルダム空港を離陸直後、3、4人のパレスチナ・ゲリラにハイジャックされた。日本機が国外で乗っ取られたのは、これが初めてだった。
出典:日本赤軍事件
▼スチュワーデスが操縦室に入ろうとした時にハイジャックを決行 ただし1人は手榴弾を手中で爆発させてしまい即死
一等客席に「エクアドル国籍の新婚夫婦」を装った男女がいて、スチュワーデスからシャンパンのサービスを受けたが、その直後にスチュワーデスが操縦室に入ろうとした時に押し入った。
女の方は持っていた手榴弾を手中で爆発させてしまい即死(興奮して手榴弾を投げようとして、仲間に撃たれたという話もある)、近くのチーフパーサーも負傷した。
出典:日本赤軍事件
ハイジャック犯人グループの1人の女が、アムステルダム離陸後に2階のファーストクラス・ラウンジで誤って手榴弾を爆発させた。
この女は死亡し、近くで接客にあたっていたチーフパーサが顔面に重傷を負った。
また犯人誤爆時ラウンジのトイレで着物に着替えていた客室乗務員は誤爆した犯人女の飛び散った肉片を片付けさせられたと言われている。
▼ハイジャックされた日航ジャンボ機は爆破された
午前8時45分、ダマスカス空港に着陸し、給油。11時55分に再び離陸。ベイルート、キプロス方向に向かった。
同機はリビア・ベンガジ空港に姿を見せたが、1度空港上空にを旋回し、滑走路に降りたった。
出典:日本赤軍事件
犯人グループは乗員乗客150人の人質を解放後、同機を爆破しリビア当局に投降した。
機体爆破に際し犯人グループは事前に乗務員に爆破を通知。
着陸後乗務員は脱出用シュートを使って乗客を退避させたがこの際に数名の乗客が軽傷を負った。
乗客たちは脱出シュートから飛び出し、なぜか走って逃げた。その直後、日航機は大爆発。燃え尽きた後には尾翼の一部を残しただけとなった。
出典:日本赤軍事件
犯人グループは投降後、ムアンマル・アル=カッザーフィー大佐率いるリビア政府の黙認(積極的な援助)の元、リビアの友好国経由で国外逃亡した。
なお、飛行機が爆破され滑走路が利用不可能となったことから救援機の着陸ができず、着の身着のままで解放された乗客、乗務員は陸路を使った救援物資が届くまでの間、リビア政府が用意したTシャツなどの着替えを分けあって急場をしのいだ。
▼ハイジャックに巻き込まれた小沼健二機長の人柄
乗員・乗客全員が機外へ脱出した後、犯人の手でジャンボ機(約600億円)は爆破された。
犯人(パレスチナ・ゲリラの1名は機中で自爆して死亡)はリビア政府に逮捕された。
この便で乗客と乗員の命、それに機体の安全確保を一手に引き受けていたのが小沼機長である。
彼とは、事件に遭遇する3ヶ月ほど前に、会社で偶然会って挨拶を交わした。
「来月、1度横浜の自宅に遊びに来いよ。お母さんも(奥様のこと)会いたがってるよ」
いつものぶっきらぼうな、でも慈愛に満ちた顔で声をかけてくれた。
相変わらず、元気そうで髪も黒々として、若々しく全く気取ったところのない頼りがいのあるキャプテンだった。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
さて、このような状況下で、くだんの小沼キャプテンは、どれ程の苦渋を味わい、ギリギリの決断を迫られたか、想像を絶するものだったと思います。
それも、関係国政府、関係機関、会社からそれぞれの思惑や利害を包括して、色んな要求や指示が出される状況下です。
3日間という長い間、責任者の機長として、ハイジャック犯との交渉に当りながら、乗客と乗員の生命の確保を第一に考えていたのです。
それもジャンボ機を操縦しながら、心身ともに疲労困憊した中で、さまざまな重圧に長時間耐えていたのでした。
最後に、自分が操縦していた機体が爆破され、炎上していくのを、どんな思いで見ていたのでしょう。
飛行機そのものを心から好きだった彼の気持ちを推しはかることは出来ません。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼事件解決後、空港に出迎えに行ったが機長の黒髪が真っ白になっていた
事件解決後、日本に帰国した時に私は彼を空港に出迎えました。
つい3ヶ月前に会った、彼とは別人でした。
先ずビックリしたのは、彼の黒髪が半ば真っ白になっていたことです!
想像を絶する苦悩を体験すると髪が白くなるということを話には聞いたことがありますが、現実に私は目の当たりにしたのです。
あの3ヶ月前の若々しさは微塵もなく、目の前をうつむきかげんに通り過ぎていく彼は10歳は年老いた容貌に変わっていました。
私はその姿に驚愕して声を掛けることができませんでした。
この事件を契機に彼は変わりました。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼機長は本当に飛行機が好きだった
元々、照れ屋で、ぶっきらぼうな性格でした。会社から幾度となく役職への話があったのを、ずっと辞退し続けてきたような人でした。
「自分は飛行機を操縦することが好きなんだ。定年まで、ただの操縦士でいたいんだ!」
彼は、第2次大戦時に輸送機の操縦をやっており、終戦後にJALに操縦士として入社したのです。
「当時の輸送機なんてトイレなんて付いてないんだから、用を足すときは爆弾を落とす時に使う、胴体の開閉口から黄色い爆弾を落とすわけだ・・・」なんて笑いながら、話をしてくれました。
「自分は飛行機の操縦職人であることを天職だと考えている」とよく言っていました。
初めて、彼と一緒の乗務になった時、彼は我々客室乗務員との打ち合わせは、必要最低限に終始して、飛行機に直行して、先ずは入念に飛行機の外回りのチエックをして、それもただ目視確認ではなく、どんな寒い時でも、必ず素手で触手確認をするのです。
機体をいとおしむように、触るのです。私はその様子を何度か目撃しました。
その都度、この機長は「本当に飛行機が好きなんだなー」と思ったものでした。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼後輩パイロットや客室乗務員からの評判もよかった
彼は私に「操縦は私が責任を持ってシッカリ飛ばす、お客のことは君が責任者なんだから、全て頼む」と言った言葉が今でも忘れられません。
最初に彼と一緒にアムステルダム行きの便を飛んだときのことです。
機長訓練課程の副操縦士がトイレに出てきた時に、「今回ほど機長らしい機長に感動したことはない!」と言うのです。
「どうしたんですか?」と聞いたところ、彼が言うには、アラスカを離陸して4時間ほどの地点で、機長席の前の窓ガラスが突然、全面に細かいヒビができて、全く前方が見えなくなったのです。
彼は「どうしましょう!」と慌てて小沼機長の顔を見ると、彼は何事もなかったかのように平然として「君のほうの窓は見えるからかまわないよ」と言ったそうです。
副操縦士は出発地アラスカのアンカレッジ空港に引き返すことを考えて、意見具申したのですが、機長の説明の内容もそうだが、慌てず騒がず、沈着冷静に状況判断する姿に「目指すべき機長」の姿を見たということでした。
私は、その時に操縦室に入って実際のヒビのできた窓を見たのですが、彼が客室責任者の私にこのことを知らせなかったことも理解できていました。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
余計な心配を掛けてはいけないという彼の気遣いなのです。
「キャプテン、大丈夫なんですか?」と聞くと、「片目運転になるが、平気だよ」と笑っていました。
「操縦は私が責任を持ってシッカリ飛ばす、お客のことは君が責任者なんだから、全て頼む」と言った言葉通りでした。
副操縦士の人達と酒を飲む機会があると、私はこの話をよくしていました。
彼等は、「彼は個性的でちょっと、とっつきにくい印象があるんだけど、まさに操縦の職人・プロに徹しているんだなー・・・我々も彼のように君達から信頼されるような人情味のある機長にならなければ・・・」と言っていました。
一方において、運航乗務員と我々客室乗務員との飛行前の打ち合わせの時に、機長でございといった風情で、機長の権威をひけらかして、どうでもいいことをグダグダ言い募ったり、細かいことを新人スッチーに質問したりする機長が結構いたので、彼の場合は必要なポイントだけを伝えてくれるので、我々客室乗務員にはとても好評でした。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼事件後、小沼機長は自分から希望してアンカレッジベースへ異動
ハイジャック事件で、その時の客室乗務員が全員、使命感と職務に対する責任感にもとづいた対応を遂行したことで、一層我々客室乗務員に対する彼の信頼度が高まったこともあるのでしょうが、我々に対する小沼キャプテンの心遣いは、それまで以上に増したようでした。
あのハイジャック事件から帰国後、連日のマスコミ攻勢にも疲れていることは容易に推察できたので、私はあえて彼に連絡を取ることはしませんでした。
結局彼の自宅に遊びに行くことも控えていました。
その後、彼は自分から希望して、アラスカのアンカレッジ基地に移転しました。
3年間のアンカレッジ赴任中、彼の自宅に押しかけて行った乗務員は数え切れません。
彼の奥様は、これまた素晴らしくデキた、素敵な女性で、我々には彼のことを「キャプテン」と呼び、彼に呼びかけるときは「パパ」と呼んでいました。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
岐阜県の長良川の源流に近い田舎で、お互いは幼馴染だったそうです。
奥様はその村のお寺のお嬢さんだったそうで、とても仲の良い理想的な御夫婦でした。
日本からの便で着いたときもそうでしたが、欧州からの便で着いたときは、奥様の家庭料理を御馳走になりに大挙して、アンカレッジのご自宅にお邪魔したものです。
また、時には我々がアンカレッジからヨーロッパに飛び立つために空港に着くと、ご夫婦が待っていてくれて「機内で食べなさい」と言って、朝早く起きて作ってくれた全員分のオニギリを渡してくれたりもしてくれました。
このオニギリが梅干、おかか、イクラなんかが入ってて、とっても美味しいのです。
若いスチュワーデス達はご夫妻を「お父さん、お母さん」と親しみを込めて呼んでいました。
また、いろんな悩みを相談したりもしていたようでした。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼その人柄から外資系他社の日本人スチュワーデスたちにも慕われる
外資系他社の日本人スチュワーデスの方も数名遊びに来ていました。
ある日、いつも大人数で御馳走になるので、皆で会費制にしようということになり、私がそのことを提案したのですが、お二人は「皆が来てくれるのが嬉しいし、君達の食事代くらいで生活に困るようなことはないから、心配しないでいい!」と仰っていました。
当時は、ちょうど高校生の可愛いお嬢さんが1人いて、このお嬢さんをとても可愛がっていたので、私が時々彼女のわがままを叱ったりしていたほどです。
彼は、結婚を間近にしたスチュワーデスなんかには、「僕らみたいな夫婦になれよ」と半ばおのろけみたいに笑って言っていました。それほど素敵な御夫婦でした。
彼と私はよく将棋を指しながら酒を飲んでいました。
そんな我々をいつもニコニコしながら、傍で奥様がせっせと肴を出してくれていました。
やがて、彼は日本に戻り、私は彼の横浜の自宅に泊りがけで何度か遊びに行ったものでした。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼ラストフライトはアンカレッジからの貨物便だった
定年退職を控えて、最後の便(ラスト・フライト)で、アラスカのアンカレッジからの貨物便を彼は選びました。
彼を知る人は皆で「いかにも、彼らしいなー」と思っていました。
それでも、沢山の人達が最後の便を終えた彼を成田空港に出迎えました。
沢山の花束に埋もれていたそうです。
照れ屋で、恥ずかしがりの彼はただ「有難う・・・有難う・・・」と言っていたとのことです。
私は、仕事で彼のラスト・フライトに立ち会うことはできませんでしたが、夜、彼を慕う連中が、都内の下町の小料理屋の2階でやった送別会には出席することができました。
彼は会社主催の送別パーテイを直ぐに退去して、我々の送別会に出席してくれたのでした。
その時に、彼のラスト・フライトに立ち会った整備士の人が感激にむせびながら、こんな話をしてくれました。
我々整備士は飛行機が安全に飛べるように常に全力で機体の整備をしています。当然のことです。
機長さんにもいろんな方がいます。小沼キャプテンはいつも我々を信頼して、ねぎらいの言葉を 忘れませんでした。
新入りの整備士にもです。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
▼着陸後、ランディングギアにシャンペンを振りかける
彼が最後の飛行を終えて成田空港に着いた時、私は機体整備の担当で、彼から長い間ありがとうという言葉を掛けてもらいました。
飛行機から降りた彼は、思い出の沢山あるアンカレッジの空港で買われたのでしょう。
ご自分で持参したシャンペンを機体のギア(車輪)に振りかけながら、
「ありがとう、お世話になった。ありがとう・・・」と何度も何度も機体に話しかけていました。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!
私は本当に彼は飛行機を愛していたのだなーと、かれの姿に深い感動を覚え、涙が止まりませんでした・・・
小沼健二という方は、飛行機の操縦が好きで、それに関わる人達が好きで、操縦しながら物言わぬ機体と心を通わせていたんだと思います。
ダッカのハイジャック事件で、彼の操縦していた機体は犯人の爆弾で炎上してしまいました。
彼は、一体どんな気持ちでその光景を見ていたのでしょう。
彼は退職後、岐阜の山奥の小さな故郷で最愛の奥様と静かにヤマメを釣りながら過ごされていました。
そこに、私は家族と何度かお邪魔したことがありました。
「これはうまいぞ!」と言って、ご自分で釣り上げたヤマメの骨酒を作って飲ませてくれました。
3年前、彼は天国に召されました。
きっと、彼のことだから、ダッカで爆破されたジャンボ機を自分で操縦して天国に行ったのだと思います。
彼は、あのハイジャック事件のことは、奥様にさえ一切語らなかったということでした。
最後までキャプテンを貫いた人でした。
出典:[第56号] 素晴らしい小沼健二キャプテン(最終回) (2006年3月4日発行) | 実録!国際線チーフ・パーサーの飛行(非行?)記録 - メルマ!