■小学2年生の時に交通事故で重傷を負う。そして凄い明るい母親(あだ名がジャスミン)が付きっ切りで看病をする。
7歳の頃、当時通っていたバレエ教室からの帰り
母親が迎えに来て停車中、暴走車に激突される交通事故に遭う。衝撃で粉砕した車のフロントガラスが顔中に突き刺さり、顔だけで540針・口内でも260針を縫う大怪我を負った。
事故の影響
失明こそ免れたものの、両目の視野も狭小化し、聴力も戻らなかった上、事故前の記憶を失って言語障害を起こし、数字の大小すら分からぬ脳機能障害まで負った事で『普通学級に戻るのは難しいかもしれません』と担当医から告げられたほどだった。
顔面粉砕骨折に眼球打撲、網膜剥離(もうまくはくり)に手足の骨折……。顔面を540針縫う大手術もし、事故前の記憶もすっかり消えてしまっているんです。
出典:叶うまで諦めないからこそ夢が叶う――石黒由美子さん - 電脳筆写『 心超臨界 』
ただ、私自身はそれが悲しかったり、落ち込んだりという気持ちは全然なくて、入院生活を凄く楽しんでいましたね。
母は私のしらないうちに病室の鏡を全部取り払っていたので、私は自分がひどい顔になっていることも知らず、それに気づいたのは1年以上も先のことでした。母がとても忙しい人だったので、そばにいてくれること自体が凄く心強くて、それだけでもう幸せでした。
過去の記憶がほとんどない中、お母さんは記憶を取り戻させようと部屋にDVDを持ち込み、今まで観てきた漫画やドラマを見せていた。
出典:「奇跡の夢ノート」石黒由美子さんの感動悲話 | おせっかい やまちゃんのブログ
すると由美子ちゃんはお母さんに突然「私、シンクロナイズスイミングをしたい」って言うねん。お母さんはビックリした。
それは、事故前にもシンクロをしたいって言ってたから。記憶がないはずなのに、潜在意識は
しっかり覚えていたんかもしれない。
夢を語った由美子ちゃんにお母さんが差し出したのは夢ノート。
由美子ちゃんは、夢ノートに「シンクロナイズスイミングをする」ではなく「オリンピックに出る」と書いている。その夢が由美子ちゃんを支え、リハビリを積極的に取り組むようになり、また病院内では自分より重病な人に率先して声をかけ励ます。
長い入院生活。しかし、苦しくなかった。信じられないことに、あれほどの重傷を負いながら、
小学校5年生の時まで、自分が障碍者であるとことを意識したことがなかった。
母がそう感じさせなかった。「あなたはスーパーマン!何でも出来る!」
「そして、世界で一番可愛い子。」
母はいつも、そう言ってくれていた。
だから、そう思っていた!!
そう、自分は、何でも出来るんだ!!!本当は、現実には大変なことが起こっていた。
記憶障害、学習障害、視力や聴力の問題、三半規管異常、顔面麻痺など。
■小学校へ復帰したが事故の後遺症などでいじめにあう
小学校への復帰
しかも、普通クラスへの。
母は、普通のクラスに戻した。
回復したと言えども、学習生涯は残った。
勉強しても、勉強しても、頭に入らない。
覚えることが出来ない。
母の習慣として、いろんな世界の奇跡をスクラップしていた。新聞などで、有り得ない出来事に関する記事があると、大切にしていた。
世界で起こる奇跡と同じように、
不幸にも障碍者のとなってしまった娘にも、
そんな、同じような奇跡が、起こる信じることに結びついていたとしても、不思議ではない。
常に、いつだって、「あなたは、何でも出来るよ!!!」といつも勇気づけていてくれた。
どんな時も、いつも明るく、何ら、疑問も不安も抱かせないほどに。しかし、現実も、しっかりと認識していた
現実は、残酷。「おい、フランケン!!」と呼ばれた。
いじめが始まった。
馬鹿にされると、悔しくて、食ってかかってしまった。
その結果、どんどん孤立していった。
勉強も何も分からず、何にもついて行けなかった。
顔に大きな傷を負い、勉強もできない。
やっても、出来ない。
この頃から夢ノートを書き出した。
「夢ノート」というものを母の影響でつけていたんですが、そこにきょうクリアすべき課題を、かなり細かく書くようにしていました。きょうこの部分のここを習得するとか、1週間後、こんな感じになっているようにするとか。
出典:叶うまで諦めないからこそ夢が叶う――石黒由美子さん - 電脳筆写『 心超臨界 』
これは毎日、朝晩書くんですが、1日が終わると次の日の課題が見えてきますよね。でも寝るとたいがい忘れるので、朝、改めて1日どう過ごすかを考え直して、毎日毎日勝負を懸けていってました。何となしに進むという日は、1日もなかったと思います。日記と違うのは、きょうあったことを綴(つづ)るのではなく、それを受けて自分はどうしたいのか、何をしなきゃいけないかを書いている点ですね。「いまできていないこと」はいいんです。大事なのは「その後」のことなんですよ。夢が叶うと、叶った内容の上から赤ペンで線を引き、「ありがとうございました」と書き添えました。
一方、中学校は、登校拒否気味となった。小学校のときは、分かりやすいいじめだったが、中学校でのいじめは、無視、だった。
シンクロのスクールに行っても、無視だった。自分にだけは、ルールや決まり事が伝わることがなく、コーチに叱られたり、外されたりした。
学校に行こうと思うと、お腹が痛くなった。
母が電話押して、学校に休む旨を伝えると、なぜか、突如、腹痛が治った!
すると母は、怒ることなく、言った。「じゃあ、由美ちゃん、ご飯食べれるね!美味しいもの食べに行こう!!!」そんな日は、美味しいランチに連れて行ってくれた。そんな日々が続き、名古屋中の美味しいランチを食べた。母は、常に、「いいんだよ!」と否定することなく、受け入れてくれ続けていた。
■事故の後遺症や腎臓病に負けずにシンクロの練習を続ける
事故の後遺症は、勉学への支障にとどまらなかった。
運動には致命的な、三半規管に問題が生じてしまっており、まっすぐ泳ぐことすら出来なかった。
当然、プールでは、いつも隅に追いやられる。居場所は、なかった。中学校一年生の時だった。
しかし、母だけは、違った。
「あなたは出来るよ!」
「大丈夫!!!」
「すごいね!」と言い続けてきた。
励ましてくれる母に向かって、「何も出来ない!!!」と怒りをぶつけ、不平不満を言っていた。
すると母は、「事故を起こしたから、今は出来ないんだよ。」
そして夢について、話し始め、「夢があるでしょ。オリンピックに20歳に出たいなら、逆算して、スケジュールを立てよう!」そう、前に向かって視界を開けてくれた。
すると、時間がないことに気がついた
夢ノートは書き続けた
オリンピックに出る。
自伝を書く。
学年最下位だったけど、名古屋大学に入学する。
などなど。
夢を叶えるために、いろいろと調べた。
どうしたら、いいのか。
オリンピックに出るためには?
人を勇気づけることが出来るには?
名古屋大学に入学するには?
夢を追いかける毎日から逃げないようにするために、
毎日の一個一個のことから、逃げないようにした。
母は、自分の希望を常に叶えてきた。プロのスミングスクールに通いたい!オリンピックに出るためには、まずはスイミングだ!この望みも叶えてくれた。
母とともに、名古屋中のスミングスクールを回った。
「オリンピックに出るために、水泳を強化してください!」
行くとこ、行くとこ、まともに相手にされなかったが、一件、受け入れ先があった。
朝5時から、朝練をやってくれている、プロのスイミングスクール。
その先生は、全てのスクールに断られていた中、「よし、やろう!」と受け入れてくれた。母と二人三脚の、より一層の努力の日々が始まった。
高校時代は新聞配達のアルバイトもしていたので、勉強時間を確保するため、私のスケジュールは分刻みだった。
出典:http://mikaduki2.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/028-802b.html
学校が終わった足でシンクロに通い、夕方5時から8時まで練習し、9時ごろ帰宅。食事後、部屋で腹筋、背筋、腕立て伏せなどの陸上トレーニングをし、そのまま机に向かうのは体力的にきついので、お風呂に入って11時ごろに一度寝て、夜中の3時に起きて授業の予習・復習。明るくなる前に自分の新聞を自転車で配ってまわり、7時半には高校に向かうという繰り返し。土日は1日10時間、シンクロの練習漬け。夏休みは朝5時からスイミングスクールで水泳の自主練習もした。
■諦めない努力が道を開いた!
高校2年生の時に、なんと全国大会準優勝を成し遂げる
そして、オリンピック選抜のBチームに入り、
アテネオリンピックの強化代表選手になった!
高校生になると、
中学校までと異なり、友人も出来た!
名古屋大学への入学は、強化合宿が受験と重なってしまった。
しかし、国立の愛知教育大学に見事合格した!
九九すら出来なかったのに!!
夢がいろいろと叶ってきた!!!
その時、慢心してしまい、スキが出来ていた。
オリンピック選考の結果、
選抜9人に残れなかった。
なんと、10人目だった。
そして、挫折した。
見事な転落。シンクロナイズドスミングからも離れてしまった。
毎日、死にたいと思っていた。
何もする気にならない。やる気もない。
しかし、
そんな毎日を繰り返している中、
一人ぼっちでは、つまらない。
一人ぼっちでは、何も出来ない。気がついた!
友人達にも救われた。特別な人にも救われた。
何よりも母の思いに気がついた。
もう一度、オリンピックを目指すことに決めた!!!
1年半も、一線から離れていた。
トップアスリートにとっては、一線から離れることは、致命的。
ましてや、これだけの長期間のブランクは選手生命の終わりと言える。
正直言って、終わっている状況の中から始まった。
だが、
やり直そう!!!と思ったその日から、全てが変わった。
人生は、自分で作るもの。人生は、自分のモノ。
自分の思い描いた瞬間に、夢が叶うとは限らない。
自分の思い描いたカタチで、夢が叶うとは限らない。
諦めなければ道は必ず開かれる!
そう信じて、夢を追いかけることが大切。
そして、努力努力の結果(アテネは逃したが)、
北京は手に入れた!!!
夢には、時差がある
■アテネは逃したが北京オリンピックには出場できた
オリンピック終了後
愛知教育大学では、
努力に努力を重ねて、
幼稚園から高校までの教員免許を取得した。
2015年からは、
神戸大学でいじめ問題に関する第一人者のもと、
研究をしている。
かつていじめを受け、心の傷を負い、
だからこそ、見えるもの、理解出来ることがある。
夢ノートは、朝晩、記している。
夢を見続けること。
夢には、時差がある。
夢を叶えるために必要なことは何だと思われますか。
【石黒】 第一に明確な目標があること、第二はそれを支えて励ましてくれる人の存在です。この二つが絶対条件で、どちらか一つが欠けるとできないんですよね。五輪に出たシンクロのメンバー全員にもこのことは共通していました。
ただ、この二つが揃(そろ)っていても、全然いい成績が出なかったり、そういう持続の心を引き裂くような結果に出遭うことがよくあります。
でも実は、発心、決心をした瞬間に、その夢の半分以上、いや、8割から9割かなっていると言っても、過言ではないと思うんです。もう本当に、あと一歩か二歩行ったらそこを越えられたかもしれないのに、まだ姿が見えてないばっかりに、途中で諦めてしまう。そこを確信できるかできないかは、もう自分の気持ち一つなんですよ。
出典:叶うまで諦めないからこそ夢が叶う――石黒由美子さん - 電脳筆写『 心超臨界 』
自分の経験を交え「夢を諦めなければ必ず叶うんだ」ということを一人でも多くの人に伝えていきたいと語る
数々の苦しい思いや挫折、
そして夢を描き、
夢が叶い続けている日々の中から、
近頃、生涯の夢を見つけた。
それは、
「信じることの素晴らしさを伝えていくこと。」
それが、
生涯の夢となった。
信じる力。それが、大切。
人にとって本当の支えとは、
どんなときであっても、
いつだって、
「信じてくれている!」
ということを感じられる状況があるということ。
信じる明日のために、だから今、何をするか!
石黒由美子 6/7 浜松市立北部中学校講演会
出典元:YouTube
ニュースの映像ですね
「できないと思ったことをクリアした人だけが、一段上の景色を見ることができる」-(石黒 由美子 シンクロ選手)
『奇跡の夢ノート』(著者:元シンクロ日本代表・石黒由美子さん)。「シンクロでオリンピックに出る!」交通事故で瀕死の重傷を負ったベッドで、少女が綴った「夢ノート」……t.co/moxuDmj8vx