応援歌は超有名
G 読売ジャイアンツ[巨人] 2 松本 匡史 応援歌(青い稲妻)
出典元:YouTube
アナウンスでは「レフト松本」とされていますが、松本匡史と言えばセンターのイメージ
松本匡史応援歌 (松本哲也)
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ニックネームは「青い稲妻」
青色の手袋を着用し当時の巨人のビジターユニフォームが水色であった事とも併せて「青い稲妻」のニックネームを付けられる。これは赤い手袋を着用した「赤い手袋・柴田勲」にあやかったものである。
実は本名は松本哲(さとし)
2012年9月3日放送 プロ野球2012 東北楽天×オリックス(9/3) 両軍先発投手である永井怜及び小松聖の投げ合いに際し、放送中に本人によって語られる
1976年ドラフト5位でジャイアンツに入団
1977年 初打席初ヒット
1977年4月3日、後楽園球場での開幕2戦目の中日戦、6回から土井正三選手に代わり二塁手で出場、7回裏の初打席で堂上照投手から、センター前にタイムリーヒットを打っています。
衝撃の初盗塁
4月19日の甲子園球場での阪神3連戦の初戦、2-3と1点リードされた9回表、二死一塁で代走に起用された松本選手は、古沢憲司投手、田淵幸一捕手のバッテリーから見事に二盗を決めます。
もしアウトになれば、試合終了というプレッシャーのかかる場面で、プロ入り初盗塁を決めたのです。
最近では、WBCでの台湾戦で鳥谷敬選手(阪神)の9回表二死からの盗塁が話題になりましたが、当時のセオリーではあり得ない事でした。
巨人は、これをきっかけに代打山本功児選手のタイムリーで同点に追いつき、延長戦の末勝利し、このままこの3連戦を3連勝し、開幕ダッシュにつなげます。
1977年の成績
巨人は、この松本選手を大々的に売り出し、新人王を狙わせようとしたのですが、その途端、持病の脱臼を起こしてしまい、シーズン後半を棒に振ってしまいます。
結局1年目の成績は49試合、打率.351ホームラン4本11打点10盗塁でした。
途中で離脱してしまったものの、翌年以降に期待を持たせる成績でした。
1978年はあまり振るわず
2年目の1978年は、67試合に出場したものの打率.212ホームラン0本5打点12盗塁と伸び悩んでしまいます。
1979年は一軍出場なし
そして1979年、松本選手は決断をします。
大学時代からの脱臼癖を治すために、肩の手術に踏み切ったのです。そのため、この年は一軍出場はありませんでした。
1979年秋 地獄の伊藤キャンプ
長嶋茂雄監督が静岡県の伊東スタジアムで行った「地獄の伊東キャンプ」で、俊足を生かす為に右打ちからスイッチヒッターに転向する。
1981年柴田勲の後の巨人の1番打者に定着
1987年 130試合中105試合出場するもオフに引退
1987年、開幕から打撃好調で前半戦一時は首位打者を独走したものの、6月下旬くらいから突然スランプ気味になり、後半戦、台頭してきた駒田徳広が1番レフトでスタメン出場する機会が増えていく。そんな中、久しぶりにスタメンに起用された試合でイージーフライを落球すると、王監督がこれに激怒。このミスが致命的となり以後さらにベンチを温める日が続くようになる。 新本拠地東京ドーム完成に伴う外野守備陣の強化と簑田浩二(阪急)の交換要員(結果的に蓑田は金銭トレードで獲得することになる)として名前が挙がったことで事実上の戦力外となるが、この時の年齢32歳だった。移籍先を探して他球団で現役続行を選ぶ道もあったが、後楽園球場最後の年のリーグ優勝を手土産に、ジャイアンツのユニフォームのまま、引退することを選んだ。
セリーグシーズン盗塁記録保持者
1982年、1983年に盗塁王を獲得。1983年に記録した年間76盗塁はセ・リーグ記録
代走満塁ホームラン
入団1年目の1977年6月13日の対大洋戦の9回表に代走で出場してタイムリーヒットでホームインし、味方の打者一巡の猛攻の後に回ってきた打席で、満塁ホームランを打つという珍しい記録を作った。
ちなみに、この試合は西本聖投手がプロ初勝利をあげた試合でもありました。
振り逃げを取り消された直後にホームラン
1981年8月15日に明治神宮野球場で行われたヤクルト対巨人の9回表で、巨人の打者松本匡史は、1ボール2ストライクからの投球をハーフスイングしたが、球審にスイングと判定され三振を宣告された。しかし捕手がこの投球を後逸したのを見て松本は一塁へ走り、振り逃げが成立した。
このプレイに対しヤクルトの武上四郎監督は球審に「松本のバットは回っていない、ボールだ」と通常では考えられない抗議を行った。審判団は協議の末、この抗議を認め、2ボール2ストライクからの打ち直しとした。打席に入り直した松本は1球見送りで3ボール2ストライクとし、3球ファウルで粘った末、9球目を左翼への本塁打にした。それまで納得のいかない顔つきだった巨人ベンチもこれには大笑い。武上監督の抗議は仇となってしまった。