◆『指導医』にまつわる話
研修医だったころ、とても熱い指導医がいた…
@nonke_joy 自尊心を引き裂かれるほどの厳しい指導や、目を背けたくなる自分の恥を無理やり見せつけられることがいかに苦しく辛いことか。
でもきっと、然るべき時にその辛さを経験することが絶対的に必要だったのだと思います。
お金では買えない素晴らしい経験を聞かせてくださり、ありがとうございます。
◆『心理学の先生』にまつわる話
ゼミの心理学の先生、とても面白い方で。ある日の授業で…
ゼミの心理学の先生、とても面白い方で。ある日の授業で「あなたは超能力の実在を信じるか」という内容のアンケートが回って来て。まあ当時はオウム事件の記憶も生々しく、クラスほぼ全員が否定的な態度だったわけ。すると先生がいつもの授業と違うことを言い始めた。
「今日は皆さんに私の研究の協力者をご紹介します。プライバシー保護の為、仮にAさんとお呼びします。Aさんはある特異な能力の持ち主で、その能力について私は科学的アプローチで調べさせて貰っています。その能力とは、いわゆる超能力です」
まあ半身半疑よね。
「ではAさんの能力の幾つかを一緒に見てみましょう」
そっからがすごくて。まずはサイコロの目の予言。先生が振るんだが明らかに二回に一回以上の確率で当たる。次にESPカード。これは生徒も参加して、9割くらいの正答率だったと思う。
「今日は行けますか」「大丈夫だと思います」
「スプーンを一つ取ってください」
先生に言われて、ゼミ部屋でコーヒー飲む時僕らが使うスプーンの一つがAさんに渡される。Aさんは目を閉じて、それを指先で軽く撫で始めた。するとゼミ室の蛍光灯の内の一本がジジッと点滅した。女子がきゃあっと悲鳴を上げる。
スプーンの頭は曲がるだけにとどまらず、僕たちの目の前でくるん、と首を傾げるように回ってカチャン、とテーブルの上に落ちた。
静まり返る僕たちに、またアンケートが回って来た。内容は同じ。「あなたは超能力の実在を信じるか」
僕らの回答は一変した。もちろん信じる側に。
アンケートを回収し終えると先生は言った。「種明かしをしますと、この方は私の知人のプロのマジシャンです。今日披露して頂いた現象は全て手品です」
なあんだ、という空気が流れる中、先生が続ける。
「でも、この種明かしがなかったら?これが何かのセミナーだったら?」
先生の手にはアンケート。
反論の余地はない。オウムの事件を知っていてさえ、目の前でセンセーショナルな現象が起きた興奮は、僕らの判断を狂わせたのだから。
「大学ってすげえな」と僕が思った授業の一つ。
因みにその方は「なるほど・ザ・ワールド」に「ジョーカーマン」というキャラで出演してた方とのこと。
蛍光灯はどうやったんですか?と聞いたら「あれはたまたま偶然で、普通に切れ掛けてるだけです」とのことだった。なんだそりゃ。僕らの鳥肌を返せ。空中浮揚もやれば出来るが、仕掛けの準備が大掛かりになるから今回は見送ったとか。
見たかったな……空中浮揚。
@hiromaru712 興味深く力のある講義ですね、私も社会心理学の講義で占いをきっかけに貧しいシンママが自殺した記事を見せられ「占いと皆さん言うけど最後の一押しになる場合がある」と強烈なことを言われた記憶があります。甲南大でもあえてナチス式の集団行動をやりファシズムの恐怖を体験する授業があるようですね
◆『職場の人物』にまつわる話
若手の頃、職場に一人だけ優しい人がいた…
人気ツイッタラー「燃え殻」さんの呟きです。
若手の頃、職場に一人だけ優しい人がいた。その人がいたから続けることができたと思う。前にその人に、どんな時でもなんで優しいのか?聞いたことがあった。「俺、パイレーツオブカリビアン好きで、そうなりたくてさ」と言った。白目。観たことないけどあってよかったパイレーツオブカリビアンと思った
◆『中学校の先輩』にまつわる話
中学の時にサッカー部の1つ上の学年にサッカーが下手な先輩がいた…
中学の時にサッカー部の1つ上の学年にサッカーが下手な先輩がいた。高校生になって他校との練習試合の時に彼と会って、僕が「サッカー続けてたんですね」と言うと「そうね、サッカー楽しいから」と答えた。彼とはそれきりだったけど、多分、今の僕が多趣味なのは彼のお陰だと思う
◆『介護施設の入居者さん』にまつわる話
オロナミンCが大好きで、体にいいと信じてた入居者さんがいた…
タガメ(プランクしよかな)@沼の底から@tagamekamo
オロナミンCが大好きで、体にいいと信じてた入居者さんが
「これが好きで毎日ずっと飲んでたけど、病気には効かなかったな。飲んでも長生きはできん」と悔しそうに言いながら、
97歳で亡くなった。
ので、たぶんオロナミンCは体にけっこういいんじゃないかと思う。
@tagamekamo 私の施設もオロナミンC飲んでいる利用者が長生きしておりました。100歳は超えてますw
@tagamekamo 甘いものが大好きだった祖父が他界後
「おじいちゃんの机の引き出し開けたら飴が沢山出てきたのよ。だから早死にしたのよ。」と祖母
祖父が亡くなったのは103歳。甘い物もきっとそんなに健康に悪くない。
◆『知的障害のおじいさん』にまつわる話
亡くなってしまったが、昔うちには知的障害のおじいさんが住んでいた…
やまさん@Eiko Yamashita 🏴🇬🇧@Bed_gentleman
亡くなってしまったが、昔うちには知的障害のおじいさんが住んでいた。家族が貧しく彼の面倒を見られなかったので、住み込みでうちの手伝いをして暮らしていた。3歳児位の知能なので、赤ちゃんは可愛いがるけど4−5歳くらいの子とは本気で喧嘩し、15歳を過ぎたら「姉ちゃん兄ちゃん」と呼んでくる。
やまさん@Eiko Yamashita 🏴🇬🇧@Bed_gentleman
だから、頼まれたらTVをつけて相撲を見せてあげたり、お菓子をあげたりしないといけない。
うちの子達は皆赤ちゃんのうちは子守をしてもらい、大きくなったらお兄さんお姉さんの役割をしないといけない。亡くなった父の事は、20歳も年が下なのに「兄ちゃん、兄ちゃん」と呼んで懐いていたのだ。
やまさん@Eiko Yamashita 🏴🇬🇧@Bed_gentleman
父が亡くなって「兄ちゃんがいなくなった」と寂しそうにしていた。たまにトコトコ歩いて父のお墓に行ってその辺で積んだお花をあげたりしていた。家族が見つけたら捨てるのだが。
数年前に亡くなったが、結局今はうちのお墓に入っている。肉親は関わり合うのを嫌がっていたから。
やまさん@Eiko Yamashita 🏴🇬🇧@Bed_gentleman
たまに派手な柄の服が見当たらなくなる事があったのだが、母がピンときてそのおじいさんの部屋に行くとそこで見つかる事があった。
母曰く変な意味ではなく「亡くなった母親がそういう襦袢を着てたんでしょう。貧乏なりに可愛がって育てたけどあんまり長生きしなかったみたいだ」と言っていた。
やまさん@Eiko Yamashita 🏴🇬🇧@Bed_gentleman
「可愛がって育てたから、きっと心が優しく穏やかなんだよ」と言っていた。
そのおじいさんは一生歳を取らないで3歳くらいのまま亡くなった。最後は老人ホームに入ったが、自分が幼い頃行きたくても行かれなかった「学校だ」と喜んでいて、介護士さんを「先生」と呼ぶので皆クスクス笑っていたそうだ。
やまさん@Eiko Yamashita 🏴🇬🇧@Bed_gentleman
あと、おじいさんを最後に面倒見てくれて、その前にもデイサービスで折に触れて預かってくれたのは特別養護老人ホームでした。寝たきりの時間が短かったのも本人の健康とホームの皆さんのお陰です。社会の仕組みも変わったけど、養護施設で働く皆さん、障害者施設で働く皆さんへは感謝しかないです。
◆『同人作家さん』にまつわる話
私がまだ学生だった頃、とても好きな同人されてる作家さんがいた…
私がまだ学生だった頃、とても好きな同人されてる作家さんがいて、いつだってあったかい、でもちょっと切ない話を描かれる人で本当に大好きで、交流などもさせていただいてたけど、ある日病気が発覚して日々あっという間に体力がなくなって、それでも本を書かれていた。体重激減して支えがないと
歩くことも辛そうだったのに、サークル参加されていてペーパーには病状とこれが最期だと思うからどうしても出たかったこと、心配かけてしまったことへの謝罪が書かれてた。なのに新刊はいつも通り幸せであったかかった。自分には漫画という遺せる手段があってよかった、たった1人でも誰かの心に
残ることが出来たならいいな、とおっしゃっていて、その時にこの人の強さも悲しさも忘れないでいよう、と思ったことを思い出した。まだ忘れてなかった。
私も誰かに残るようなもの、書けたらいいなぁ。
@CSI35546603 ありがとうございます…!
大好きな作家さんなので、自分のことのように嬉しいです。
人に対して優しくあったかくいられる強さを感じる作品で、ご本人も作品からうけるイメージ通りの方でした。今も尊敬する憧れの人です。
@K256tb あなたの心にあたたかな思い出と志がいつまでも残って、作者の方も幸せだと思います。
@mochimochi8787 ありがとうございます、暖かいお言葉にほっとした気持ちです。これからも作者さんの優しい作品に癒されて勇気をもらった1ファンで居続けようと思います。
◆『職場体験に来た中学生』にまつわる話
中学の職場体験できた子の中にデザイナー志望という子がいた…
中学の職場体験できた子の中にデザイナー志望という子がいた。ざくっと印刷の工程を教えてイラストレータのさわりの部分を教え、翌日は自分の名刺を作るというプログラムだったんだけど、10数年で合計で30人くらい受け入れた内でその子だけ印刷機や製版設備のスケッチをしていた
あらかじめプログラムは中学に伝えていたので名刺を作るということは知っていたのだけど、その子は手書きでラフを描いてきていた。他の子はだいたい雛形に文字を打つだけ。
聞けば美大に進みデザイナーを目指したい と。
それならばと他の子にはしなかった出来上がった名刺の「ダメ出し」をした
ヤな大人の出る杭は初めに打っとけみたいな雰囲気になるかと思ったけど、その子はこちらの言葉をキレイに吸収してブラッシュアップしてゆく。
あと数箇所手を入れたら売り物になるというところで時間切れ
納得いかない悔しそうな顔を覚えている。
その子がすごかったのはダメ出しの意味を理解していたこと。
これは自分がその歳の時には考えられない。自分の枠の中で妥協して人の意を受け入れられなかったはずだ。
「前もっていってくれたら時間と機械あけとくからおいでよ」
と言うと
「明日きます」と
彼女は翌日約束の時間にやってきて名刺を完成させた。断截した名刺を箱に入れて渡した時の表情は今まで出会った中で最も輝いていた一人だ。
しばらくして職場体験の令状が届いた。簡素な文が良かった。だいたいみんな冗長な定型文なんだよね
またしばらくして今度はその子の担任の先生が訪れ、休みがちだったその子は職場体験以来皆勤だと伝えてくれた。
そして、高校卒業後美大へ進みデザイナーとして働くという目標を達成したと知らせが来た
今は物理的なスペースがなくなってしまい職場体験の受け入れをやめてしまったのだけど、やっていてよかったと思う
ミヤティ@受験指導とキャリア教育の人@akimiya1_0410
@ma_mol 職場体験が、ただの慣例イベントになってしまっている中。素敵なエピソードが聞けてとても嬉しいです。
生徒さんが学ぶ意味を見いだせて、本当に良かったです^_^
@ma_mol この体験で学生さんの人生が大きく拓けたのですね。もちろん本人の意識の高さゆえなのでしょうが、それを見つけてひろいあげてもらえた体験が素晴らしかったのでしょう。胸が熱くなります。
◆『イラン人』にまつわる話
30年近い前の話だけど、日暮里駅で話掛けてきたイラン人がいた…
30年近い前の話だけど、イラン人が大量に日本に出稼ぎに来てた時代があったんだよね。ある日、日暮里の駅のロータリーで「仕事を見つけたい。日本語わからない。コレ読んでくれ」と新聞を片手に日本に来たばかりだというイラン人に英語で話しかけられたことがあった。
仕事…を見つけるのは新聞では難しいかもなぁ、と思い、今日の宿はあるの?と聞けば「仕事がないから宿もない」という。それなら今日はウチに泊まっていったらいい、と実家に帰って、一緒にメシ食って、日本の狭い風呂に入ってもらって、畳の上に布団を敷いて、その日は寝たんだったかな。
翌日の朝、自分の部屋から出てイラン人を寝かした茶の間に行くと、今はもう死んじゃった祖母とイラン人が掘りゴタツでお茶を飲んでいて、あ、やべえ説明もしてなかった、と慌てる俺に祖母は「誰だか知らないけどこの人はエライよ!アタシ起きてきたら自分で布団畳もうとしてたんだよ?まったくエライ」
意気投合した様子で言葉もわからんだろうにニコニコお茶飲んでて。今となっては祖母のいい思い出でもあるんだけど。なんだかんだで3日ほどウチに滞在して、近所の町工場で雇ってもらえることになって、なんだかんだで友達になったのね。
しばらくするとイラン人同士のコミュニティでもあるのか近所の町工場にイラン人が集まってくるようにもなって、イラン人が済まされてるタコ部屋でのホームパーティに招いてくれることもあって。彼らが言うには昔はイランに日本人がいっぱい出稼ぎに来てたんだよ、就労ビザもいらなかったんだよ、と。
日本とイランは昔から交流があるんだ、昔イランが多くの日本人を助けた、今は日本がイラン人を助ける、と笑うのだ。
酒も飲む。ムスリムなのに?と聞けば、ここはニッポン、遠い、神さま見えないね、と笑う。ホントに気のいい連中で、ナッツや豆類をよく食べた。千切ったキャベツをサラダと言い張った
イランの国技はサッカーだ。サッカーは好きか?と聞かれた。俺の生まれ育った墨田区は野球文化の根強い地域でサッカーの話を熱っぽく語ったのはこの頃が初めてだったかもしれない。
テヘランには。彼がいう。
「素晴らしいスタジアムがある。この世の興奮のすべてがそこにある。いつか一緒に行こう」
その約束は果たされないまま、30年ほどが過ぎる。鉛筆で書いてくれた彼の実家の住所のメモ書きもすでに紛失した。
でもいつかテヘランに行くんだ。スタジアムに行く。サッカーを見る。約束したんだ。だから困るんだ。困るんだよ。サッカーは戦争であり、平和あっての戦争で、ホントに戦争は困るんだよ