カジノ解禁間近の日本。そんな中、確実に注目を浴びる人物がいます。
一般的な知名度は高くはありませんが、「カジノ生活25年間」という本物の「日本人ギャンブラ」ーを紹介します。
その名も、、、『森巣博(もりすひろし)』氏
森巣博
オーストラリアを拠点とする国際博奕打ち
ここ20年間は、毎年1千万程度はカジノで稼いでる。
兼作家。
1948年、石川県金沢市生まれ。本名、鈴木博。
1966年都立豊多摩高校卒業後、漫画雑誌編集者や記者を経験
1971年、ヒッピーに憧れを抱き『競輪でつくった資金』をもとに渡米、1973年帰国。
イギリス人の妻と結婚して1975年英国移住。
ロンドンよりカシノ賭博の「常打ち」賭人を目指す。
主夫として子育てをしつつカジノで生活費を稼ぐ。
英国の大学に妻テッサが在学中、パトリックが生まれる。幸福な幼年期。ところが小学校に入ると白人の子供たちからのイジメが待っていた。おりしもサッチャー政権の時代。人種差別的政策と軍拡路線のイギリスに嫌気がさす。
出典:『無境界家族』 森巣博
個人に対する国家の重みとか管理とかでは、オーストラリアが一番軽そうね」というテッサの言葉が決め手になり、一家はオーストラリアに移住する。
出典:『無境界家族』 森巣博
博士号取得後にオーストラリアの大学に赴任した妻とともに移住。
妻テッサは毎日のように深夜遅くまで働いた。家事をするのは物理的に不可能である。代わりにヒロシが家事全般すべてを行なった。当然、子育てもヒロシの担当だった。
出典:『無境界家族』 森巣博
息子パトリック不登校児にして13歳で大学に通いはじめた天才児
パトリックは不登校児であったが、抜群の学習能力をもっていた。ヒロシは8歳の息子に本格的なパーソナル・コンピュータを買い与え、つぎのように宣言する。「したいことだけをしなさい。やりたくないことはやらなくてもよろしい」
出典:『無境界家族』 森巣博
この教育方針のもと、パトリックは15歳で大学に入学し主席総代で卒業。19歳でケンブリッジ大学大学院に入学。20歳でカリフォルニア大学バークレー校純粋数学科教員となるが、18ヵ月で退職。ヘッジファンドに高給をもってスカウトされたのだ。
出典:『無境界家族』 森巣博
Patrick Morris-Suzuki
現在はオーストラリアを本拠地に執筆活動を行っている。
ギャンブルの中では牌九(パイガオ)と呼ばれる種目を中心に据えている。1994年度全豪牌九選手権者。
牌九(パイガオ)
パイガオは、パイゴウなどとも呼び、牌九と書きます。英語では、PAIGOW です。パイガオの起源は中国で、天九牌という独特な32枚の牌を使って行い、すでに紀元前には存在していたと考えられています。この天九牌は現在のドミノの起源であるとも言われているものですが、古くは竹杯・骨牌などの形だったようで、実際に1120年に微宗皇帝に骨牌が献上されたという記録が残っています。この骨牌と馬吊が合わさって現在の麻雀へと進化していったというのが定説になっています。
その後、パイガオは西部開拓時代にアメリカで普及し、19世紀半ばには早くもカジノゲームとなりましたが、1930年代にはいったん消滅し、1960年代になってまた復活し行われるようになったと記録されています。
パイガオはあまり馴染みのない天九牌という牌を使用するうえ、独特の役を覚えねばならないのでとっつきは悪いですが、カジノゲームの中でも比較的思考性のあるゲームで、小さい賭から大きい賭までカバーし、ゲーム性、賭博性とも奥の深いゲームです。
この牌九(パイガオ)という名の賭博ゲームは、カシノで採用されるものの中では、最も複雑で、かつ、奥が深いゲームだ。 引用「無境界の人」
他にバカラでも上級者である。
バカラ
バカラ(英: Baccarat、伊: Baccarà)はカジノゲームの一種であり、トランプが使われる。
バカラとは、イタリア語でゼロの意味。バカラは高額な掛け金をかける人が多い。
ここでは最も古いバカラであるビッグバック・バカラのルールが記載されている。
バカラはカジノゲームの中でも大金が動くゲームのため、多くのカジノではVIP待遇でもてなすバカラ専用の部屋を用意している。また、近年利用者が急増している中国人にもっとも人気のあるゲームである。
森巣博氏の「名言」を紹介します。どれも「ギャンブルの本質」を語るものばかりです。
博奕とは、緊張、分裂、高揚、放出(収縮)、解放、弛緩の過程を踏む。集中、とはそういうものだ。楽しい、とはそういうことだ。
出典:神はダイスを遊ばない
2万AUD(約180万円)の一手を仕留めた瞬間。刺すか、刺されるか。だから博奕は面白い。
それで博奕はやめられない。
転がるのはよい、立ち上がらないのはいけない。
出典:神はダイスを遊ばない
慣れればならず、慣れてはならず。
出典:神はダイスを遊ばない
乾坤一擲の勝負手における勝利の直後に、余韻などはない。表現するのは難しいが、虚無の無明がある。
出典:超境者たち
博打に必要なのは、確信である。
出典:神はダイスを遊ばない
「根拠などいらない。信じるところから始まる」のが博奕なのである。
出典:無境界の人
バクチは怖い。もっとも、だからバクチは面白いのである。
出典:ばくち打ち
八回連続して勝った、ということは、八回連続して負けうる、ということでもあるのだ。いや体験上で言えば、十五回連続して負けるのである。
出典:無境界の人
どこかで、躓(つまず)く。
そして、いったん躓くと、もう制御が利かなくなって、そのまま一直線に落ちた。いつもそうである。
出典:ばくち打ち
負けを受容しろ。ついさっき経験した惨敗を受け入れるんだ。もし、あなたがこれからも『常打ち』賭人としてカシノを攻め続けるという思い定めた志を持つのであれば、負けを受け入れるしか方法がない。
出典:神はダイスを遊ばない
わたしは弱い賭人なのである。「正攻法」戦術を取らない。そんなことをしたら、負けてしまう。いつも「ゲリラ戦法」。そして最近は「一撃離脱」。
出典:無境界家族
敵を殺せるうちに殺しておくのだ。そうでないと、次に殺されるのは自分なのである。これは博奕における基本原理。
出典:神はダイスを遊ばない
博奕は波である。流れである。
出典:森巣博BOT
博奕は八回負けても、一回勝てば浮く。もっともだから怖い。
出典:森巣博BOT
『森巣博 氏 ー 博奕(バクチ)・三箇条の御誓文!』
①ゲームのルールをよく覚えなさい。
出典:無境界の人(集英社文庫)
②負けるときは少額の、そして勝つときは多額の賭金(たま)をはりなさい。
出典:無境界の人(集英社文庫)
③運(ツキ)が去ったと思ったら、すぐに席を立ちなさい。酒でも飲んで寝なさい。
出典:無境界の人(集英社文庫)
この方、作家としても、著書は多数。内容は「カジノに関すること」「小説」から「日本人論」まで多岐に渡ります。一部を紹介します。面白いです。
無境界の人(集英社文庫)
名作とされる作品。
「日本人」て何だ? オーストラリアを本拠地に、世界中の賭場を攻める国際博奕打ちである著者が、世に溢れる浅薄な「日本人論」に天誅を下す。明朗痛快な不純文学。(解説・北上次郎)
著書:
『博奕の人間学』(飛鳥新社、1997年・小学館文庫(『ろくでなしのバラッド―人間は賭けをする動物である』と改題)、2000年)
『無境界の人』(小学館、1998年・集英社文庫版、2002年)
『無境界家族(ファミリー)』(集英社、2000年・集英社文庫版、2002年)
『神はダイスを遊ばない』(飛鳥新社、2000年・新潮文庫版、2003年)
『ジゴクラク』(光文社、2002年・光文社文庫版、2005年)
『越境者たち ―カシノ そこで、人は夢見る。そこで、人は祈る。』(上下巻)(扶桑社、2002年・集英社文庫版、2005年)
『セクスペリエンス』(集英社、2002年・集英社文庫版、2006年)
『非国民』(幻冬舎、2003年・幻冬舎文庫、2005年)
『悪刑事』(徳間書店、2004年)
『蜂起』(株式会社金曜日、2005年)
『極楽カシノ-怪人モリスばくち旅』(光文社、2005年)
『犯人に願いを-悪刑事』(徳間書店、2006年)
『二度と戻らぬ』(幻冬舎、2007年)
『越境者的ニッポン』(講談社新書、2009年)
『賭けるゆえに我あり』(徳間書店、2009年)
『日本を滅ぼす〈世間の良識〉』(講談社新書、2011年)
賭けるゆえに我あり・・・・徳間書店、森巣博著
ギャンブル、とりわけゲーム賭博の本質をついた名著である。
数ある森巣本の中でも、これまで以上にプレイヤーのメンタルに焦点を当てた作品。ゲーム賭博の魅力にハマり、勝利の歓喜も敗北の悲哀も味わって来たプレイヤーには、ことさら胸に響く森巣語録が満載である。
「慣れねばならず、慣れてはならず」
ギャンブルの本質は矛盾であると説く著者の言葉は深い。矛盾を知り、その矛盾を乗り越えなければ、カシノでの勝利は掴めない。
すべてのリゾカジスト必携の一冊。 (書評:GAKU)
無境界家族(ファミリー)・・・・・集英社文庫、森巣博著
森巣博という作家にはじめて出合った作品がこれ。ちょうど仕事をお休み(正確にいうと失業)して、同時に子育てに悩んでいた時に、たしか朝日新聞の書評欄で偶然見つけた。父親が専業主夫の博奕打ち、母親が世界的に有名な大学教授、そして不登校の息子は15歳にして豪州一の大学に飛び級で入学する天才、という内容。こりゃ、俺が読まずして誰が読むんじゃ、と本屋に駆け込んだ記憶がある。しかし、この作家はただの博奕打ちではなかった。この作品は博奕の話はほとんどないかわりに、東西の気鋭の学者・思想家を実名で切りまくる。それでも、思わず膝をたたいて、狂喜乱舞するほど楽しめた。この作品が好きなのはこれだけの理由ではない。親なら思わずほろっとくる部分がある。“Last but not least,......(最後になるが、決して些細ではない)”ねたばれを避けるため詳細には触れないが、こんな台詞を聞ける親になりたい、切にそう思う。てなわけで、世のお父さん、必読ですぞ。(書評:リゾカジ)
越境者たち(上下巻)・・・・・集英社文庫、森巣博著
ヒロシ、マイキー、ウルフを中心に繰り広げられるバカラ、パイガオ、ドラッグ、セックスと、なんでもありの物語。前半のバカラ、後半のパイガオの大勝負は見ものです。特に大勝負における賭人の心理描写は著者ならでは。「懼れてしまえば、博奕は負ける」、「頭蓋内の熱の靄が、そのまま凍り付いてしまった」、「乾坤一擲の勝負手における勝利の直後に、余韻などはない。表現するのは難しいが、虚無の無明がある」などなど。しかし、この作品の奥深くには著者の「ナショナリズムとはなにか」、さらに言えば「人とはなんなんだ」という思いがあるはず。読み終えて涙を流したのは私だけではないかもしれない。(書評:キャロ)
ろくでなしのバラッド・・・・・小学館文庫、森巣博著
。第1章「人間はなぜ賭けをするのか?」以降は、森巣氏ならではのカジノ論のオンパレード。第2章ビッグバック、第3章ブラックジャック、第4章ルーレット、第5章牌九、第6章大小、第7章ミニバック、そして終章では日本でなぜカジノができないのか?と、その問題点を展開。カジノゲームのルールと特性、そしてカジノとはなんぞやをこれ1冊でまとめ上げてしまう豪腕は彼でしかできない芸当だろう。森巣作品に触れたことのない人はこの作品から入るのがいいかもしれない。(書評:リゾカジ)
非国民(上下巻)・・・・・幻冬舎文庫、森巣博著
この作品はいきなり「帝国ホテルのカレーライス」から始まる。森巣ファンならちょっとがっかりするかもしれないが、その不安は見事に解決される。クスリの正しい使い方に始まり、アンダーグランドカジノ(アングラ)、警察官僚の腐敗などがリアリティーをもって描写されている。わたしはその筋に疎いのでわからないが、おそらく事実なのであろう。そしてこのような社会の矛盾に立ち向かう「ハーフウエイ・ハウス・希望」の面々が希望を求めてオーストラリア・クラウンカシノに乗り込む。30万ドル、一撃離脱のバカラ一本勝負だ。結果は2枚の持ち札が3という極めて低い数字で勝利してしまう。バカラを打ち慣れた人ならわかると思うが、これは痛快な勝利。持ち札の合計が5でも3でいい。極端にいえば、そこに「希望」があれば1でもいい。森巣氏の言葉を借りればカシノとは人が「夢をみること」と「祈る」ことが許された場所である。人は希望があれば生きていける。「夢をみること」と「祈る」は人間の特権である。しかし、今の社会にはそれが失われつつある。著者のそんな危機感が、この傑作を生んだのだろう。(書評:キャロ)
この森巣氏の奥様、現在は「人文学者」。かなり有名な方です。
妻はオーストラリア国立大学教授の人文学者「テッサ・モリス=スズキ」。
テッサ・モリス=スズキ
テッサ・モリス=スズキ(Tessa Morris-Suzuki、1951年 - ) はオーストラリア国籍の歴史学者。専門は日本近代史。オーストラリア国立大学教授。テッサ・モーリス=スズキの表記も使用。
夫は、作家の森巣博。Morrisは自分の旧姓。Suzukiは夫の本名の姓。
1951年イギリスで外交官の父のもと、4姉妹の末妹として生まれる。ブリストル大学でロシアの歴史及びロシアの政治を専攻し、学士号を取得。バース大学で日本の経済史を専攻し、博士号取得。日本での生活を経て、1981年にオーストラリアに移住。
ニューイングランド大学経済史上級講師、同准教授、同教授を経て、オーストラリア国立大学アジア太平洋学群文化歴史言語学部日本史教授、元学部長、元一橋大学客員教授。
慰安婦問題などをはじめとする大日本帝国の戦争犯罪に積極的に発言している。
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◆森巣博さんBOTがありました!
俺は大勝ちするとモノを買うんだ。残った金でまた便所裏に咲く月見草のような、しみじみした博奕を打ちはじめる。健気でつつましく、かつ、美しく。
これでツキの流れが変わった。この時点でわたしは「見」を決め込むか席を立つかすべきだった。しかし熱くなってしまった。熱くなるとは、つまり秩序が崩れるということだ。席を立てなかった。常打ち賭人としては失格である。
まったく、偶然がすべてを決定するものなのだ。確立された軌道の上で確乎たる人生を歩んでいる、と考える人が居るかもしれないが、それは虚妄、錯乱のたぐいである。その確立された軌道とは、実は膨大な量の偶然の集積場にたまたま建っている幻のレールでしかない。
大勝ちなどしなくてよい。毎日少しづつ勝つ。いや、それよりも沈む日がない、というのが理想だ。
「稼業は博奕打ちだ。博奕感はさえている。それでも負ける。当然なんだよ。これは数学的確率の問題だ。」
水圧を感じ始めたら。わたしは陸にあがって「日向ぼっこ」する。無駄な抵抗を慎む。足掻かない。
あなたは懼れるであろう。あなたの懼れが相手の懼れを上回るときが必ず来るだろうからだ。そして負ける。いつかきっと必ず負ける。