◆「軍師官兵衛」は、いよいよ大詰め、天下分け目の関ケ原の戦いに突入!
軍師官兵衛
軍師官兵衛は、2014年のNHK大河ドラマ。豊臣秀吉の軍師、黒田官兵衛の生涯を描く。黒田役はV6の岡田准一。作:前川洋一 音楽:菅野祐悟
最終回は、衆院選の開票速報の影響で、12月21日午後8時放送に変更された。
関ヶ原の戦い
豊臣秀吉没後、徳川家康による政権掌握過程で発生した合戦。もともとは上杉家の上洛拒否に伴う会津征伐のための家康の東下と、それに対応した三成の挙兵に始まり、ほぼ全国の大名が東西両陣営に参加する大戦役に発展。関ヶ原で行われた合戦で、家康の率いる東軍主力が三成らの西軍主力を破ったことで決着。家康はこの戦いで事実上の天下人となった。この結果、1603年に家康は征夷大将軍に任じられ、江戸に幕府を開くことになる。
◆黒田家と関ヶ原の戦いとの関係性は?
黒田如水 (黒田官兵衛)
黒田 孝高は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され福岡藩祖となる。キリシタン大名でもあった。嫡子は福岡藩初代藩主黒田長政。
一般には通称をとった黒田 官兵衛(くろだ かんべえ)、あるいは出家後の号をとった黒田 如水(くろだ じょすい)として広く知られる。豊臣秀吉の側近として仕え、調略や他大名との交渉などに活躍した。竹中重治(半兵衛)と双璧をなす秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称された。
官兵衛は関ケ原に行かず、九州を制圧しようと兵を動かします。
出典:http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20141121-00000000-sasahi-peo
黒田長政
黒田 長政(くろだ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。筑前福岡藩初代藩主。
戦国武将、軍師黒田孝高(官兵衛・如水)の長男。九州征伐の功績で豊前中津の大名となり、文禄・慶長の役などでも活躍した。特に関ヶ原の戦いでは東軍につき大きな戦功を挙げたことから、徳川家康より筑前名島に52万3,000石の大封を受け、福岡藩を立藩。初代藩主になった。父の孝高と同じくキリシタン大名であったが、棄教した。
長政は父、如水譲りの調略においても西軍の小早川秀秋や吉川広家など諸将の寝返りを交渉する役目も務めており、それらの戦功により戦後、家康から関ヶ原一番の功労者として子々孫々まで罪を免除するというお墨付きをもらい、筑前名島(後の福岡藩)に表高だけでも52万3,000石、実高では100万石とされる大封を与えられた。
◆謀将家康に敗れ去った西軍の武将たちはどうなったの?
西軍の主な武将
石田三成・毛利秀元・宇喜多秀家・安国寺恵瓊・伊藤盛正・大谷吉継・大谷吉治・平塚為広・織田信貞・織田信高・長束正家・長束直吉・糟屋武則・川口宗勝・河尻秀長・岸田忠氏・吉川広家・木下延重・木下頼継・小西行長・長宗我部盛親・戸田勝成・野村直隆・寺田光吉・毛利秀秋・毛利勝信・毛利勝永・駒井重勝・島津義弘・島津豊久・鈴木重朝・田丸直昌
◆まずは前線で戦った武将たち◆
【石田三成】…実質的な西軍の総大将
石田三成 (いしだみつなり)
永禄3年(1560年)に石田村生まれ。秀吉に見出されて,家臣となる。佐和山城主,五奉行の一人.治部少輔。秀吉のもとで出世し,有能な官僚として活躍するも加藤清正,福島正則ら武闘派からは嫌われる.1600年.関ヶ原の合戦に敗れた。
当初は西軍優勢であり、石田隊は6,900人であったが、細川忠興・黒田長政・加藤嘉明・田中吉政ら兵力では倍以上の敵に幾度と無く攻め立てられた。
高所という地の利と島左近・蒲生頼郷・舞兵庫らの奮戦もあって持ちこたえた。
しかし西軍全体では戦意の低い部隊が多く、次第に不利となり、最終的には小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りによって西軍は総崩れとなり、三成は戦場から逃走して伊吹山に逃れた。
田中圭が演じた石田三成
田中圭 wiki
<a target="_blank" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%9C%AD">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E5%9C%AD</a>
その後、伊吹山の東にある相川山を越えて春日村に逃れた。その後、春日村から新穂峠を迂回して姉川に出た三成は、曲谷を出て七廻り峠から草野谷に入った。そして、小谷山の谷口から高時川の上流に出、古橋に逃れた。しかし9月21日、家康の命令を受けて三成を捜索していた田中吉政の追捕隊に捕縛された。
一方、9月18日に東軍の攻撃を受けて三成の居城・佐和山城は落城し、三成の父・正継をはじめとする石田一族の多くは討死した。
9月22日、大津城に護送されて城の門前で生き曝しにされ、その後家康と会見した。
9月27日、大坂に護送され、9月28日には小西行長、安国寺恵瓊らと共に大坂・堺を罪人として引き回された。
10月1日、家康の命により六条河原で斬首された。享年41。
【島左近】…石田三成の勇猛な家臣
島左近
島 清興(しま きよおき)は、安土桃山時代の武将。石田三成の家臣。一般には通称の島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。本項目でも特に断りが無い限り「左近」と記す。実名は俗に勝猛(かつたけ)などともいうが、文書から確かなのは清興である。
三成に三顧の礼をもって迎えられ破格の高禄を食む側近として仕え、「治部少に過ぎたるものが二つあり 島の左近と佐和山の城」と謳われるほどの逸材だった。
島左近の最期には諸説ある。
関ヶ原の戦い本戦においては、最初は西軍有利に進み、左近も自ら陣頭に立ち奮戦するが、黒田長政軍の鉄砲隊に横合いから銃撃され負傷し後、死去したとする説。
正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りを皮切りに西軍は総崩れとなり左近は死を覚悟して再び出陣、正面の黒田長政隊、田中吉政の軍に突撃し、奮戦した末に敵の銃撃により討ち死したとする説。
左近は関ヶ原戦後、密かに脱出して立本寺に隠れ棲んで90歳前後まで生き延びたとする記録がある。
出典:http://www.kyoto-agarusagaru.com/18/24/special_detail.php
最期の折の勇猛さ・狂気じみた奮戦ぶりは東軍諸将のあいだでも語り草となっている。
黒田軍の兵士たちは関ヶ原から数年が過ぎても戦場での悪夢にうなされ、夢枕で左近が発した「かかれーっ!」の声を聞いて恐怖のあまり布団から飛び起きたとの逸話が伝わるほど。
【蒲生頼郷】…石田三成の家臣
蒲生 頼郷(がもう よりさと)
蒲生家臣。九州征伐で功を立て、蒲生の姓と「郷」の字を賜った。後に蒲生家を辞して、石田三成に仕える。関ヶ原の戦いでは、西軍に属し、島左近らと共に石田三成軍の先鋒を務めた。
関ヶ原の戦いでは島左近とともに奮戦し、不利な状況の中、東軍の織田有楽を負傷させるなどの活躍を見せるが、その後千賀文蔵兄弟に討ち取られた。
【島津義弘】…有名な敵中突破によって退却した武将
島津義弘 (しまづよしひろ)
戦国武将。戦国後期最強の一角。通称「鬼島津」。島津四兄弟の次男。島津の九州征服で大活躍。慶長の役では「鬼石曼子」と恐れられる。関ヶ原戦役では紆余曲折あって西軍に参加するが、紆余曲折があったのであまり積極的に行動せずに合戦当日に至る。大勢が決した後、「島津の退き口」と称されることになる「前方への退却」を行い、井伊直政を負傷させたり島津製作所のご先祖様に助けられたりしつつ国元に帰還する。その後、隠居して維新と号した。
関ヶ原の戦いが始まってから数時間、東軍と西軍の間で一進一退の攻防が続いた。しかし14時頃、小早川秀秋の寝返りにより、それまで西軍の中で奮戦していた石田三成隊や小西行長隊、宇喜多秀家隊らが総崩れとなり敗走を始めた。
その結果、この時点で300人(1,000人という説もあり)まで減っていた島津隊は退路を遮断され敵中に孤立することになってしまった。
この時、義弘は覚悟を決めて切腹しようとしていたが、甥の豊久の説得を受けて翻意し、正面の伊勢街道からの撤退を目指して前方の敵の大軍の中を突破することを決意。
島津軍は家康の本陣に迫ったところで転進、伊勢街道をひたすら南下。
このとき島津軍は捨て奸(すてかまり)と言われる、何人かずつが留まって死ぬまで敵の足止めをし、それが全滅するとまた新しい足止め隊を残すという壮絶な戦法を用いた。その結果、甥・豊久や義弘の家老・長寿院盛淳らが義弘の身代わりとなり多くの将兵も犠牲になったが、義弘自身はかろうじて敵中突破に成功。
海路から薩摩に逃れた。生きて薩摩に戻ったのは、300人のうちわずか80数名だったといわれる。
その後、島津家はどうなったの?
薩摩に戻った義弘は、敗戦の痛手にもめげず薩摩領全土をあげて徳川からの討伐に対する武備を図る姿勢を取って国境を固める一方で、全身全霊を傾けて家康との和平交渉にあたる。
慶長5年9月30日(1600年11月5日)、当主出頭要請を拒み軍備を増強し続ける島津家の態度に、怒った家康は九州諸大名に島津討伐軍を号令。黒田、加藤、鍋島勢を加えた3万の軍勢を島津討伐に向かわせるが、家康は攻撃を命令できず睨み合いが続いた。
徳川家康 (とくがわいえやす)
島津を誅伐出来なかった家康はこのことが心残りで、死に臨んで遺体を薩摩に向けて葬るように遺言を残したとされる。家康の憂いは250年後、幕末の倒幕運動という形で現実のものとなる。
関ヶ原に主力を送らなかった島津家には1万を越す兵力が健在であり、戦上手の義弘も健在。もしここで長期戦になり苦戦するようなことがあれば家康に不満を持つ外様大名が再び反旗を翻す恐れがあった。
家康は態度を軟化せざるを得ず11月12日(12月17日)、島津討伐軍に撤退を命令。
慶長7年(1602年)に家康は島津本領安堵を決定する。
【小西行長】…豊臣恩顧大名の中でも文治派だが、猛将で知られる
小西行長 (こにしゆきなが)
小西 行長(こにし ゆきなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。洗礼名アウグスティヌスを持つキリシタン大名でもある。
岡山の商人の家に養子として入り、商売のために度々宇喜多直家の元を訪れていたが、その際に直家に才能を見出されて抜擢されて武士となり、家臣として仕えた。織田氏の家臣・羽柴秀吉が三木城攻めを行っている際、直家から使者として秀吉の下へ使わされた。この時、秀吉からその才知を気に入られ、臣下となる。文禄・慶長の役の際、加藤清正と先陣を争った。関ヶ原の戦いにおいては西軍の将として奮戦した。
慶長3年(1598年)8月に秀吉が死去すると、徳川家康の取次役を勤めるなど、むしろ家康との距離を近づけているが、慶長5年(1600年)の家康による会津征伐に際しては上方への残留を命じられた。その後に起こった関ヶ原の戦いでは、石田三成に呼応し西軍の将として参戦する。
9月15日の関ヶ原本戦では、東軍の田中吉政、筒井定次らの部隊と交戦して奮戦する。しかし小早川秀秋らの裏切りで大谷吉継隊が壊滅すると、続いて小西隊・宇喜多隊も崩れ、行長は伊吹山中に逃れた。
忍成修吾が演じた小西行長
忍成修吾 wiki
<a target="_blank" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E6%88%90%E4%BF%AE%E5%90%BE">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8D%E6%88%90%E4%BF%AE%E5%90%BE</a>
9月19日、関ヶ原の庄屋・林蔵主に匿われた。行長は自らを捕縛して褒美をもらうように林蔵主に薦めたが、林はこれを受けず、竹中重門家臣の伊藤源左衛門・山田杢之丞両名に事情を話し、共々行長を護衛して草津の村越直吉の陣に連れて行った。
10月1日に市中引き回しの後六条河原において三成・安国寺恵瓊と共に斬首された。
その際、行長はキリシタンゆえに浄土門の僧侶によって頭上に経文を置かれることを拒絶。ポルトガル王妃から贈られたキリストとマリアのイコンを掲げて三度頭上に戴いた後に首を打たれたと伝えられる。
【宇喜多秀家】…西軍の副大将として最大戦力で戦った武将
宇喜多秀家 (うきたひでいえ)
備前国岡山城城主の宇喜多直家の長男。幼名・八郎。初名は家氏だったが、後に豊臣秀吉より偏諱を受けて秀家と名乗る。天正9(1581)年、父の遺領を相続する事を、秀吉の斡旋によって秀吉の主君・織田信長から許される。翌年、備中高松城攻めの講和後に、備前・美作・備中3国57万石を秀吉より安堵され、秀吉の養女で前田利家の娘である豪姫と結婚。
慶長3(1598)年には「五大老」に列せられ、2年後の関ヶ原の戦いでは石田三成らにより西軍の総帥に擁され西軍最多となる1万7000の兵を持って出陣した。
秀家は西軍の副大将として石田三成、大谷吉継らとともに家康断罪の檄文を発し、西軍の主力となる。
関ヶ原の戦いにおいても主力(家康本隊を除けば、第2位の兵力である1万7,000人。西軍の中では最大)として積極的に戦い、東軍の福島正則隊と激戦を繰り広げた。しかし同じ豊臣一門である小早川秀秋の裏切りで西軍は総崩れとなり、宇喜多隊は壊滅。
小早川隊の裏切りに激怒した秀家は、「松尾山(小早川の陣)に乗り込み金吾(秀秋)を叩き斬ってやる」と叫んだと言われるが家臣の明石全登に制止され、やむなく落ち延びていった。
武田航平が演じた宇喜多秀家
武田航平 wiki
<a target="_blank" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%88%AA%E5%B9%B3">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E8%88%AA%E5%B9%B3</a>
秀家は伊吹山中に逃れた後、変装して薩摩国の島津義弘などを頼って落ち延び、牛根郷(現在の鹿児島県垂水市)に匿われた。
、秀家が琉球を支配しようとしたという伝説が残っている。
しかし「島津氏が秀家を庇護している」という噂が広まったため、慶長8年(1603年)に島津忠恒(義弘の子)によって家康のもとへ身柄を引き渡された。
島津忠恒、並びに縁戚の前田利長の懇願により罪一等を減じられて死罪は免れ、駿河国久能山へ幽閉される。
慶長11年(1606年)、同地での公式史上初の流人として八丈島へ配流となった。
八丈島に島流しになったその後は?
八丈島では苗字を浮田、号を久福と改め、妻の実家である加賀前田氏・宇喜多旧臣であった花房正成らの援助を受けて(初期には秘密裏に、晩年は公に隔年70俵の援助を得ることが幕府より許された)50年を過ごした。
秀家と二人の息子が八丈島流罪と決まったとき、豪姫は同行して苦労を共にすることを望みますが受け入れられず、実家・金沢の前田家で寂しい生活を送り、寛永11年(1634)、61歳で亡くなりました。
出典:http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita2.htm
宇喜多秀家・豪姫の像 (八丈島)
背後の山は「八丈富士」と称される標高854mの西山。
秀家は容姿端麗で身長170cmという美丈夫であったという。
八丈島での流人生活は、誰も面倒を見てくれるわけではなく大変苦しいもので、秀家とその一行は自ら農耕や漁撈に励まないとその日の食料にも事欠く有様だった。
出典:http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita2.htm
高貴な身分も相まって他の流人よりも厚遇されていたという説があるが、それでもやはり八丈島での生活は不自由であったらしく、「偶然嵐のため八丈島に退避していた福島正則の家臣に酒を恵んでもらった話」や「八丈島の代官におにぎりを馳走してもらった話」(飯を二杯所望し、三杯目はお握りにして妻子への土産にした説もあり)などの逸話が伝わっている。
窮状を知った豪姫の実家・金沢前田家では、慶長19年(1614)から、一年おきに白米70俵、金子35両、ほか衣類や雑貨、医薬品を八丈島の秀家に送ることを幕府に願い出、許可されました。この仕送りは、豪姫や秀家が亡くなった後も、明治になって宇喜多一族が赦免されるまで変わることなく続けられました。
出典:http://www.city.okayama.jp/tokyo/yukari/ibuki/ukita/ukita2.htm
明暦元年(1655年)11月20日、死去。享年83。このとき既に江戸幕府第4代将軍・徳川家綱の治世であった。
家康の死後、恩赦により刑が解かれたが秀家は八丈島に留まったという説もある。こうして大名としての宇喜多家は滅亡したが、秀家と共に流刑となった長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝えた。
【大谷吉継】…石田三成との友情を優先した武将
大谷吉継 (おおたによしつぐ)
大谷 吉継(おおたに よしつぐ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名である。豊臣秀吉の家臣で、越前敦賀城主。名前については「吉隆」ともされ、大谷刑部(ぎょうぶ)の通称でも知られる。業病を患い、晩年は頭を白い頭巾で隠していたとも言う。
秀吉子飼いの武将で天正11(1583)年の賤ケ岳の戦で七本槍に次ぐ働きをするが、主に検地奉行や兵站奉行として用いられ、秀吉をして「百万の軍の軍配をあずけてみたい」とその智謀、人柄を愛されたと言う。
大谷吉継は病気によって顔がただれ、ずきんを被るようになると、諸将は大谷吉継を避けるようになったが、石田三成だけは変わらずに大谷吉継と接した。また、茶会で1つの茶碗で回しのみしていたとき、大谷吉継は茶碗に顔の膿を垂らすという粗相を犯した。諸将は病気の感染を恐れて誰も飲みたがらなかったが、石田三成が大谷吉継から茶碗を受け取り、全て飲み干した。大谷吉継はこれに恩義に感じたと伝わる。
吉継が石田三成と少年の頃よりの固い友情で結ばれていたことは周知のことであるが、一方では親家康の立場を明確にしており、秀吉の死後、家康が四大老・五奉行と対立した際も家康側に与している。
家康の上杉征伐の際、三成と家康の仲を調停しようと征伐軍に合流する途中、美濃の垂井で佐和山の三成に使者を送り、三成の子(重家)を従軍させようとするが、逆に三成から佐和山に来るよう求められ、家康追討の計画を明かされる。
吉継は三成に対し言を尽くして、その無謀を説き、自分が病身(癩病がかなり進行していた)を押し、家康に従軍するのは重家の後見をするためであるとまで言って説得したが、物別れに終り、垂井に戻った。
垂井に戻った後も3日間、使者を遣わし三成に説得を繰り返したが、決意が変わらないため、意を決し、三成と運命を共にする覚悟を固めた。
村上新悟が演じた大谷吉継
村上新悟 公式HP
<a target="_blank" href="http://www.mumeijuku.net/prof/prof_murakami.html">http://www.mumeijuku.net/prof/prof_murakami.html</a>
小早川秀秋が陣取っていた松尾山の北の藤川台に陣した。開戦後、藤堂高虎、京極高知、寺沢広高隊と激戦を繰り広げ、小早川秀秋が東軍に寝返り、大谷隊に殺到した後も、そのことを予想していた吉継は備えており、一時は逆に小早川隊を押し戻したほどであった。
しかし、小早川隊の裏切りに備えたはずの脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠、赤座直保の四隊までもが寝返り、大谷隊は三方を敵に囲まれる形となり、ついに総崩れとなった。
これにより大谷隊は防御の限界を超えて壊滅、吉継も自害した。享年42。吉継は家臣に首を打たせ、首を敵に渡さぬよう土中に埋めさせたと言う。
自害する際、小早川秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹したが、この祟りによって秀秋は狂乱して死亡に至ったという噂がある。秀秋は関ヶ原の戦いの2年後に死亡した。
吉継の敗北は戦場の趨勢を一変させ、西軍の諸隊に動揺を与え、西軍潰走の端緒となった。
◆西軍から東軍に裏切った武将たち◆
【小早川秀秋】…東軍に寝返った秀吉の養子
小早川秀秋 (こばやかわひであき)
小早川 秀秋(こばやかわ ひであき)は、安土桃山時代の大名。丹波亀山城主、筑前名島城主を経て備前岡山藩主。名は関ヶ原の戦いの後に秀詮(ひであき)と改名している。
若年ながら豊臣秀吉の身内として重きをなしたが、関ヶ原の戦いでは戦闘中に東軍に寝返り徳川家康に勝利をもたらす契機を作ったことで知られる。
秀秋は慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初、西軍として伏見城の戦いに参加した後、本戦では1万5,000の軍勢を率い、関ヶ原の南西にある松尾山に陣を敷いていた伊藤盛正を追い出してそこに布陣した。
関ヶ原本戦が始まったのは午前8時ごろであり、午前中は西軍有利に戦況が進展する中、傍観していた。
小早川秀秋は松尾山の山奥に布陣し、初めは両軍の戦況が落ち着くまで動かない考えであった。
正午過ぎ、家康は内応を約していた小早川秀秋隊が、動かないことに業を煮やして、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じる。迷いに迷っていた小早川秀秋は、この家康の督促に意を決し松尾山を降り、ここに小早川隊1万5,000の大軍は東軍に寝返った。
実際に撃ち込まれたのは鉄砲ではなく大筒だったのではないかという説も
小早川隊は山を駆け降りると、東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼を攻撃する。大谷吉継は、かねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた600の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した。
ところが、それまで傍観していた脇坂安治、小川祐忠、赤座直保、朽木元綱ら計4,200の西軍諸隊も、小早川隊に呼応して東軍に寝返り、大谷隊の側面を突いた。予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し、敗北を悟った吉継も自刃して果てた。
大谷隊を壊滅させた小早川、脇坂ら寝返り部隊や、藤堂、京極などの東軍部隊は、関ヶ原一の死闘を繰り広げている宇喜多隊に狙いをつけ、関ヶ原中央へ向け進軍を始めた。ここに関ヶ原の戦いの勝敗は、ほぼ決定した。
この秀秋の離反については、当初から家老の稲葉正成・平岡頼勝と東軍の黒田長政が中心となって工作が行われていた。
浅利陽介が演じた小早川秀秋
浅利陽介 wiki
<a target="_blank" href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E9%99%BD%E4%BB%8B">http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E5%88%A9%E9%99%BD%E4%BB%8B</a>
その後、岡山に移った秀秋は居城岡山城を改築するとともに、検地の実施、寺社の復興、農地の整備など急速な近代化を進めるなど藩内の整備に力を注いだが、関ヶ原の戦いからわずかに2年後、病死した。享年21歳。
出典:Loading...
この早世に関して、大谷吉継が関ヶ原の合戦において自害する際、秀秋の陣に向かって「人面獣心なり。三年の間に祟りをなさん」と言って切腹しており、この祟りによって狂乱して死亡に至ったという説がある。
秀秋の死後、継嗣がなかったため、小早川氏は改易された。
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【脇坂安治】…賤ヶ岳の七本槍の一人
脇坂 安治 (わきざか やすはる)
脇坂 安治(わきざか やすはる)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。淡路洲本藩主。後に伊予大洲藩初代藩主。龍野藩脇坂家初代。家紋は「輪違い」。天文23年(1554年)~寛永3年8月6日(1626年9月26日)元々は浅井長政に仕えたがその後、織田家や豊臣家に仕えていた。関ヶ原の戦いでは西軍として参戦していたが、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に徳川家康から所領を安堵された。江戸時代になると、淡路洲本藩主となり、後に伊予大洲藩初代藩主や龍野藩脇坂家初代となった。
関ヶ原では、東軍と内通の風聞があった小早川秀秋に備えて朽木元綱、小川祐忠、赤座直保らと共に配置されていたが、小早川が黒田長政と通じていたのと同様に、脇坂もまた藤堂高虎より工作を受けており、午後に入り小早川隊が大谷隊を攻撃するとそれに乗じて他の3将と共に寝返った。
同じく寝返った他の3大名と異なり、戦前に通款を明らかにしていた為、裏切り者ではなく当初からの味方と見なされ、戦後に家康から所領を安堵された。
慶長14年(1609年)9月、伊予大洲藩5万3,500石に加増移封された。
慶長19年(1614年)からの大坂の陣では本人は参陣しなかったが、大坂冬の陣の際に次男・安元が幕府軍として八丁目口を担当し、大坂夏の陣では天王寺付近での戦闘で戦功を挙げた。元和元年(1615年)に次男・安元に家督を譲って隠居する。
【赤座直保】…元は柴田勝家の与力
赤座 直保(あかざ なおやす)
赤座 直保(あかざ なおやす、 - 慶長11年(1606年))は、安土桃山時代の武将。赤座氏当主。名は小法師、久兵衛、吉家。官位は従五位下備後守。父は赤座直則。永原孝治の父。
柴田勝家や府中三人衆の与力とされており、前田氏とは関係があった。天正10年(1582年)の本能寺の変で父・直則が討ち死にすると家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて所領を安堵される。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで初めは西軍の大谷吉継の軍に属して北国口で戦ったが、本戦で小早川秀秋が東軍に寝返ったのに呼応し、脇坂安治、朽木元綱、小川祐忠らと共に東軍に寝返り、大谷軍を壊滅させる。
だが事前に通款を明らかにしなかったとの理由で、戦後、徳川家康にその功を認められず、所領を没収された。
その後は京に住んだが、同年10月前田利長の家臣となり加賀へ赴き、松任城代として7千石を領した。
慶長8年(1603年)には利長の命により先祖赤座景秋が建立した棟岳寺を下屋敷の敷地内に移転させている。慶長11年(1606年)、越中大門川の氾濫の検分の際、濁流を渡河中に落馬、溺死している。
【小川祐忠】…織田長、明智光秀、柴田勝家、豊臣秀吉に仕えた武将
小川祐忠(おがわ すけただ)
小川 祐忠(おがわ すけただ、生没年不詳)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。通称は左平次、孫一郎。官位は土佐守。左近太夫。小川伯耆守入道の子。正室は一柳直高娘。子に右馬允、小川祐滋(右馬允、光氏と同一人物か?)、小川良氏(孫左衛門)、千橘ら。小川光氏も子といわれる。
天正10年(1582年)、本能寺の変により織田信長が横死すると、明智光秀の傘下に入り山崎へも出陣したが敗北し、羽柴秀吉に降伏する。清洲会議で北近江が柴田勝家の領土となって後はその傘下となり、勝家の養子・柴田勝豊の家老として仕える。賤ヶ岳の戦いにおいては大谷吉継の調略を受け勝豊が秀吉に寝返ったため秀吉側として戦った。
関ヶ原本戦では小早川秀秋の寝返りに呼応して脇坂安治、朽木元綱、赤座直保と共に東軍に寝返り、家臣小川甚助の郎党樫井正信が平塚為広を討ち取るなど武功を上げる。
しかし、通款を明らかにしなかったことを咎められ、戦後改易となる。
改易の理由には領内悪政、嫡男とされる小川祐滋が石田三成と入魂であったなどの理由も伝わる。改易後は京に隠棲し(帰農したとの説もある)、程無く没したとされる。
【朽木元綱】…窮地に陥った信長を助けた武将
朽木 元綱(くつき もとつな)
朽木 元綱(くつき もとつな)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名、寄合旗本。父は朽木晴綱、母は飛鳥井雅綱の娘。子に宣綱、友綱、稙綱、娘(堀直政室)。
元亀元年(1570年)の朝倉攻めにおいては松永久秀の説得を受けて織田信長の京都撤退(朽木越え)を助けた。朽木は当初信長を殺すつもりでいたが、松永久秀が朽木を必死の決意で説得したためやっとの事で京に帰還できたという説もある。
信長の死後は豊臣秀吉に仕え、伊勢安濃郡・高島郡内の蔵入地の代官に任ぜられ、小田原征伐にも参加、朽木谷2万石を安堵されている。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、当初は大谷吉継に従って西軍に属したものの、小早川秀秋に呼応して脇坂安治や小川祐忠、赤座直保らと共に東軍に寝返った。
戦後、通款を明らかにしなかったとの理由により減封(9,590石)された。
元和2年(1616年)に剃髪し、牧斎と号した。寛永9年(1632年)、朽木谷において死去。享年84。
◆家康本陣の後方に陣取り、戦わずに終わった武将たち◆
【安国寺恵瓊】…毛利家の交渉人から豊臣傘下の大名になった僧。西軍の総大将に毛利輝元を担ぎ出した。
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)
安国寺 恵瓊(あんこくじ えけい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧。“安国寺”は、住持した寺(安芸安国寺(不動院))の名である。毛利氏の外交僧(武家の対外交渉の任を務めた禅僧)として豊臣(羽柴)秀吉との交渉窓口となった。
豊臣政権において秀吉によって取り立てられて大名となったとするのが一般的な見解。
恵瓊は毛利一族の中では親秀吉派の中心であった小早川隆景に近く、文禄年間に秀吉が病臥した際にはその回復を小早川家重臣山田某に伝え、同じ書状で隆景の隠居に関しても連絡するなど秀吉と隆景との間を連絡する活動を行っており、隆景が死去すると毛利が軽視されかねないと将来を危ぶんだ。
果たして危惧は的中し、自身も小早川氏と並ぶ毛利氏の支柱であった吉川広家と対立し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは懇意であった石田三成と通じて西軍に与し、毛利一族の当主・毛利輝元を西軍の総大将として担ぎ出すことに成功した。
9月15日の関ヶ原における合戦では、毛利秀元・吉川広家とともに徳川家康軍の後方に騎馬700、足軽3,000という部隊で陣取った。
山路和弘が演じた安国寺恵瓊
山路和弘 wiki
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が、前に布陣する広家が家康に密かに通じて毛利軍の参戦を阻んだため、家臣椎野道季を派遣して問い質すも広家に言い抜けられ、結局戦闘に参加することなく、西軍は敗北した。
敗北後、恵瓊は一旦毛利本家の陣に赴き、吉川広家に諭され逃亡し鞍馬寺、下間頼廉の婿である端坊明勝が住持である本願寺と匿われ京都の六条辺に潜んでいたが、奥平信昌隊の鳥居信商(長篠城攻防戦で使者として高名の鳥居強右衛門の子)に捕縛され、大津にいた家康の陣所に送られた。
西軍首脳の1人として、六条河原にて斬首され、石田三成・小西行長と共に梟首に処せられた。 享年62または64。
徳川家康の侍医であった板坂ト斎の記する逸話であるが、逃走中、追及の厳しさに逃亡を断念した侍臣平井藤九郎と長坂長七郎の両名が、捕縛の辱めを受けるよりは、自身の手に係り果てることを進言し、首を切ろうとしたが、恵瓊は首を縮めて逃げ回ったため、刀は乗り物の屋根に当たり、恵瓊の右の頬先少し傷つけただけであった。
【吉川広家】…毛利家安堵のため黒田長政を通じて家康に内通した武将
吉川 広家(きっかわ ひろいえ)
毛利氏支藩、岩国藩吉川氏の祖。元春の三男。
正室の子とはいえ、広家は三男だったため当初は人質要員だったが、1587年に長兄の元長が死去、次兄の元氏は他家に養子に出ていたために、吉川家は断絶の危機にあったが、吉川家に縁があった黒田官兵衛などの尽力により、長兄の元長の養子という形で吉川家相続が認められ、毛利領120万石の内の出雲3郡・伯耆3郡・安芸1郡及び隠岐一国に及ぶ約14万石を相続。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、毛利輝元が石田三成、安国寺恵瓊らによって西軍の総大将とされた。広家は徳川家康率いる東軍に加勢するよう提言したが、三成らの裏工作で広家が知らないうちに輝元が担ぎ出されたとされる。
外交に通じた恵瓊は広家を嫌っており、主家に背いても東軍加担を主張する広家と、一たび事を起こした以上、西軍総大将の立場を貫くべきとする恵瓊は大坂城で激論を闘わせたとされる。
しかし、あくまで家康率いる東軍の勝利を確信していた広家は、同じく毛利重臣である福原広俊と謀議を練り、恵瓊や輝元には内密にしたうえ独断で朝鮮の役以来の友人である黒田長政を通じて家康に内通し、毛利領の安堵という密約を取り付ける。
関ヶ原決戦前日にも広家は福原・粟屋の両重臣の身内2人を人質として送り、合わせて毛利の戦闘不参加を誓う書状を長政に送っている。
9月15日の本戦には西軍として参加したものの、家康に内通していた広家は南宮山に布陣、総大将の毛利秀元らの出陣を阻害する位置に陣取って毛利勢の動きを拘束した。
あくまで西軍に加勢しようとする恵瓊や長宗我部盛親、長束正家の使者が来訪するが、広家は霧の濃さなどを理由に出撃を拒否、秀元にも「これから弁当を食べる」と言って要求を退けたと言われる。これを指して「宰相殿の空弁当」という言葉が生まれた。
結果は家康率いる東軍勝利となり、毛利隊は戦わずに戦場を離脱せざるをえなくなった。合戦直後には長政に使者を立て書状を送っている。9月17日には長政と福島正則の連署で、「輝元は名目上の総大将に担ぎ上げられたに過ぎないから本領を安堵する」旨の書状が大坂城の輝元に送付され、広家としてはこれで毛利家も安泰と考えていた。
10月2日になってから長政の書簡が届いた。「家康からの毛利領安堵の密約は、輝元が否応なしに総大将に担ぎ上げられた場合のみである。ところが大坂城から発見された西軍の連判状の数々に輝元の花押があった。困った事だ。毛利の所領は没収のうえ改易されるであろう」と、当初の約束とは裏腹に、輝元が西軍に積極的に関わった文書が出てきたため毛利宗家の本領安堵は反故とされ、その後広家には周防・長門の2ヶ国37万石(29万石とも)を与えるとの沙汰があった。
広家はこの沙汰に対して、毛利本家存続のために必死の懇願を試みる。
家康は10月10日になって、輝元に対し広家に与えられるはずであった周防、長門の2ヶ国を毛利宗家に安堵すること、毛利輝元・秀就父子の身命の安全を保障する、旨の起請文を発行した。
広家は移封後は毛利家の家政の第一線から退くことになる。
広家は家督を広正に譲って隠居した後も実権は握り続け、実高10万石とも言われる岩国領、そして現在の岩国市の基礎を築いた。寛永2年(1625年)9月21日に死去。享年65。
【毛利秀元】…戦意はあったが吉川広家に阻まれた
毛利 秀元(もうり ひでもと)
毛利 秀元(もうり ひでもと)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。長門長府藩の初代藩主。毛利元就の4男・穂井田元清の長男。母は村上通康の娘・妙寿院。正室は豊臣秀長の娘・大善院、継室に徳川家康の養女(松平康元の娘)・浄明院。子に光広、元知など。一時期、従兄の毛利輝元の養嗣子となっていた。
関ヶ原の戦い時、毛利氏の運営は秀元及び恵瓊と吉川広家によって担われていた。毛利氏は西軍に属したが、輝元は西軍の総大将として大坂城に入っていたので、実際に関ヶ原へ赴いたのはこの3人であった。
広家と毛利家家老の福原広俊は西軍の勝利を危ぶみ、東軍と密かに内通して「毛利は表向きは西軍であるが、戦場では戦わずにそちらに協力する。その代わり、東軍が勝利した暁には所領を安堵してほしい」と交渉していた。
秀元自身には戦意があったとされるが、広家がそれを押し留めた(宰相殿の空弁当)。結果、毛利家の当主が傍観したため恵瓊・長宗我部盛親・長束正家など他の南宮勢も秀元が東軍に内通してるのではないかという疑心暗鬼にとりつかれ、自身らも傍観せざるを得なくなった。
戦局が西軍の敗色濃厚となると戦わずに戦場を離脱したが、東軍の追撃を受ける。
戦後、大坂城に撤退した秀元は立花宗茂と共に徹底抗戦を呼びかけたが、輝元はこれに応じず、城を退去してしまった。一方で、秀元は輝元の大坂入城時にはその行動を諌めており、開戦当初は徹底抗戦派ではなかったと考えられる。
戦後、毛利一門は大減封されたが、輝元より長門国豊浦郡・厚狭郡に6万石を分知されて櫛崎城に移り長府藩主となり、東の周防国岩国領に封じられた吉川広家と並んで西の守りを任された。
晩年は江戸に住み、第三代将軍徳川家光の御伽衆となる。慶安3年(1650年)閏10月3日、江戸で死去。享年72。
【長束正家】…算術、内政手腕に優れた五奉行のひとり
長束 正家(なつか まさいえ)
戦国武将。近江水口城主。初め丹羽長秀に仕えたが、天正13年(1585年)に豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると財政上不正があったと豊臣家より糾弾されたが、正家は帳簿を証拠として提出し、これに抵抗した。 この後豊臣氏直参の家臣になった。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。はじめ丹羽長秀に仕え、後には豊臣秀吉に仕える。内政手腕に長け、五奉行の一人としてその能力を遺憾なく発揮。
秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加するが、家康の伏見城入城を阻止できず、前田玄以と共に家康に会津征伐の中止を嘆願したが聞き入れられないなど、功を奏さなかった。
慶長5年(1600年)に三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。
関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣し合戦前には浅野隊と南宮神社付近で交戦、池田輝政隊と銃撃戦を展開した。
しかし吉川広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると撤退した。 このとき島津隊の撤退を助けるため道案内に家臣を遣わしたとも言われる。
正家は松田秀宣の活躍で水口城入城に成功するも、寄せ手の亀井茲矩・池田長吉に本領の安堵を約束されるが城から出たところ欺かれ捕縛された。
捕えられた正家は弟直吉と共に家臣奥村左馬助の介錯で切腹した。享年39。
【長宗我部盛親】…四国の覇者として名高かった長宗我部元親の世継ぎ
長宗我部 盛親(ちょうそかべ もりちか)
安土桃山時代から江戸時代前期の土佐の大名・武将。長宗我部氏第22代当主。長宗我部元親の4男。
父・元親の死後に長宗我部家の家督を継ぐ。関ヶ原の戦いで西軍に属すが、敗色濃厚と見て戦わず帰国し、徳川氏に謝意を表した。しかし、兄・津野親忠を殺したことをとがめられ、領国を没収され浪人となった。のち豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大阪城に入城、大坂の陣が勃発し、激戦奮闘を繰り広げるが敗北した。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こる。当初、盛親は徳川家康率いる東軍に与しようと考えていたが、近江国水口で西軍に属する長束正家に進路を阻まれ(徳川方へ送った密使が捕らえられ、連絡が取れなかったとも言われる)、やむなく西軍に与した。
結果的に西軍主力の一角となった盛親は東軍に与する伏見城や安濃津城などを落としながら関ヶ原に向かった。
しかし関ヶ原では徳川家康に内応する吉川広家、毛利秀元が南宮山に居座って動く気配を見せず、そのため盛親隊の前方に布陣していた長束正家も動けなかった。
盛親も統率力無く迷うばかりで時間だけが過ぎて行き、最終的に戦闘に参加しないまま西軍は壊滅した。
西軍壊滅後、盛親は軍を率いて追撃を振り切り、領国の土佐に逃げ帰った。
その後、盛親は懇意にあった徳川氏の重臣・井伊直政を通じて家康に謝罪しようとしたが、その前に家臣・久武親直の讒言から兄の津野親忠を殺害したため、このことが家康の怒りを買って領土没収で改易となった。
大名家としての長宗我部家はこのときをもって滅亡し、一領具足で鳴った勇猛な家臣団は各地の大名に誘われ再仕官する者、牢人となった者、元の百姓に戻った者など、散り散りになった。
牢人となった盛親は京都へ送られ、身一つの謹慎生活を送る事になった。京都では大岩祐夢(幽夢とも)と名前を変え、旧臣らの仕送りで暮らしていたといわれるが、寺子屋の師匠をして身を立てていたとの記録もある。
反徳川の火種になり得る危険人物として京都所司代・板倉勝重の監視下に置かれていた。
大坂の陣が勃発すると、豊臣側から故郷の土佐一国の贈与を条件に旧臣と共に大阪城に入城、激戦奮闘を繰り広げるが敗北、逃亡。京都八幡近くの男山に潜んでいるところを見つかり捕らえられる。その後、盛親は見せしめのために二条城門外の柵に縛りつけられた。そして5月15日に京都の六条河原で6人の子女とともに斬首され、三条河原に晒された。享年41。
◆大坂城で留守部隊として西軍に味方した武将たち◆
【毛利輝元】…西軍の総大将として大坂城に入城した五大老
毛利輝元 (もうりてるもと)
戦国大名。毛利元就の孫。父である毛利隆元の急死にともない、毛利家を継ぐ。尼子家残党の蜂起や宇喜多直家との争いを経て織田家と敵対関係に入るが、本能寺の変により急遽織田側の重臣・羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と講和。以後秀吉軍の傘下となり、後に五大老の一人となる。
関ヶ原の合戦当時では甥の毛利秀元に毛利軍の指揮を任せ、自身は大坂城に居た。しかし、秀元と吉川広家との政治的対立により関ヶ原では毛利軍は身動きが取れず。その結果、萩に転封され、領土も周防・長門の2ヶ国に大幅削減された。
慶長5年(1600年)、徳川家康と石田三成による対立がついに武力闘争に発展。6月に家康が上杉景勝討伐に出陣すると、翌7月、遂に三成は挙兵。この時、三成は大谷吉継の進言に従って自身は総大将に就かず、家康に次ぐ実力を持つ輝元を西軍の総大将として擁立しようと画策する。安国寺恵瓊の説得を受けた輝元は、総大将への就任を一門や重臣に相談することなく受諾。輝元は7月17日、三成らに擁されて大坂城西の丸に入った。
その後は西軍の総大将として大坂城にあったが、9月15日の関ヶ原本戦においては自らは出陣せず、一族の毛利秀元と吉川広家を出陣させる。
しかし三成ら西軍が壊滅した後の9月24日、立花宗茂や毛利秀元の主戦論を押し切り、徳川家康に申し出て、自ら大坂城から退去した。
西軍が負けると判断していた吉川広家は、黒田長政を通じて本領安堵、家名存続の交渉を家康と行っていた。関ヶ原本戦では吉川軍が毛利軍を抑える結果となり、毛利軍は不戦を貫いた。しかし徳川家康は戦後、輝元が西軍と関わりないとの広家の弁解とは異なり、大坂城で輝元が西軍に関与した書状を多数押収したことから、その約束を反故にして毛利輝元を改易し、その上で改めて吉川広家に周防・長門の2ヶ国を与えて、毛利氏の家督を継がせようとした。
しかし広家は家康に直談判して毛利氏の存続を訴えたため、輝元は隠居のまま、秀就に対し周防・長門2ヶ国を安堵とする形で決着し、毛利本家の改易は避けられた。ただし、所領は周防・長門2ヶ国の37万石に大減封となった。
大坂の陣では徳川方に味方せざるを得なくなったが、家臣・内藤元盛に軍資金と兵糧米を引き出物と称して豊臣秀頼に送らせた。
元和9年(1623年)、正式に隠居。寛永2年(1625年)4月27日、萩の四本松邸で死去した。享年73(満72歳没)。
【増田長盛】…自らの保身に走った五奉行のひとり
増田 長盛(ました ながもり)
豊臣政権の五奉行のひとり(他、浅野長政、石田三成、長束正家、前田玄以)。秀吉に仕えた増田長盛は軍事よりも内政面に才能を発揮し、特に太閤検地では石田三成とともに中心的役割を担い、検地推進に大きく貢献した。功績が認められ、1595年には大和郡山に20万石を与えられ、さらに1598年には五奉行に任じられた。 秀吉没後は、石田三成とともに徳川家康に対抗し、西軍の中心人物のひとりとなった。しかし、その一方で敵である徳川家康に内通するなど保身を図り、関が原の本戦には参加しなかった。
慶長3年(1598年)、秀吉が没した後は反徳川家康の立場を鮮明にする石田三成方に与し、打倒家康の謀議に参加。慶長5年(1600年)には長束正家や前田玄以など五奉行連判で家康の悪事を糾弾する弾劾書を示し、五大老の毛利輝元や宇喜多秀家を擁立して挙兵、西国大名に西軍加担を要請する文書を送るなど精力的に活動した。
一方で家康に三成の挙兵を内通し、また三成の資金援助要請も渋るなど対東軍への保身工作も講じている。
有薗芳記が演じた増田長盛
有薗芳記 wiki
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9月15日に行われた関ヶ原の戦いには参加せず、毛利輝元とともに大坂城守備部隊として西の丸に兵3,000を率いて駐屯。戦後の9月25日、出家して謝罪し、9月27日に大坂城西の丸にて沙汰を申し渡され改易となる。その身柄は高野山に預けられた。
その後、武蔵国岩槻城主・高力清長預かりとなった。1615年の大坂夏の陣の際、息子・増田盛次が大坂城に入り豊臣方に与し、戦後、この件が咎められ増田長盛は自害を命じられ、切腹した。
◆関ヶ原に参戦しなかったが西軍に味方した主な武将たち◆
【上杉景勝】…関ヶ原勃発のきっかけとなった五大老
上杉 景勝(うえすぎ かげかつ)
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将・大名。豊臣政権の五大老の一人。出羽米沢藩初代藩主。上杉謙信を家祖とする米沢上杉家2代目で、上杉宗家(重房を初代として)17代目。
本姓は平氏、後に藤原氏、豊臣氏を経て藤原氏となる。家系は桓武平氏の血を引く長尾氏の生まれで、叔父・上杉謙信の養子となり上杉氏となる。
小早川隆景の急死後から五大老の一人となったが、秀吉の死後五大老の筆頭格である徳川家康との関係が悪化。ここで家臣・直江兼続がしたためた挑発的な書状により家康は景勝討伐を決意した。
東軍に与した伊達政宗や最上義光らと戦った(慶長出羽合戦)。しかし、9月15日の本戦で三成ら西軍が敗れたため、12月に家康に降伏することを余儀なくされた。
景勝が兼続と共に上洛、家康に謝罪した上で上杉氏の存続は正式に許された。改易は免れたものの、置賜・信夫・伊達の3郡からなる出羽米沢(30万石)藩主として減移封され、上杉家は景勝一代において北信越の大大名から出羽半国の一大名へと没落した。
減封後は米沢藩の藩政確立に尽力した。元和9年(1623年)3月20日、米沢城で死去。享年69。後は嫡男の上杉定勝が継いだ。石高の変遷はあったが、米沢藩上杉家は幕末まで続いた。
【真田昌幸】【真田幸村】…徳川秀忠軍を足止めし、関ヶ原への参戦を阻止した親子
真田 昌幸(さなだ まさゆき)
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。甲斐の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の3男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られる。豊臣秀吉からは「表裏比興の者」と、徳川家康からは「希代の横着者」と評される。
真田幸村 (さなだゆきむら)
戦国時代の武将・真田信繁(源次郎信繁)の通称。1567年~1615年。父の真田昌幸は、武田家に仕えるが、武田家が滅びると独立。上田城(長野県上田市)に本拠を構える。関ヶ原の戦いの際は、兄の真田信之は東軍に付き、真田昌幸・幸村は西軍側に付き、中山道を通った徳川秀忠の軍を足止めした。高野山に蟄居を命じられるが抜けだし、大阪冬の陣・大阪夏の陣に参加。真田丸の砲撃や家康本陣突入などを行う。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、在京していた昌幸もこれに従っている。
家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、諸大名に家康弾劾の13ヵ条の書状を送り多数派工作を始める。昌幸は下野国犬伏(現在の栃木県佐野市)で書状を受け取ったと言われ、宇多氏を通じて三成と姻戚にあった関係から次男・信繁と共に西軍に与し、上田城へ引き返した。
この時、昌幸は信幸・信繁と去就会議を開き、信幸は正室が本多忠勝の娘である事を理由に、また昌幸も真田家存続のために父子訣別した。
家康の3男・徳川秀忠の部隊およそ3万8,000の大軍は江戸を発して中山道を下り、9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。昌幸は僅か2,000の兵力で篭城して迎え撃ち、関ヶ原の戦いの前哨戦が行われた。
昌幸は徹底した籠城策を取り、時には出撃して奇策を用いて秀忠軍を散々に翻弄し、秀忠は城攻めに手を焼いて9月9日に小諸に撤退した。この際の徳川軍の惨敗ぶりは徳川方の史料であるにも関わらず「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」とまで伝えられている。
中山道制圧の任にあった秀忠軍は家康から上洛を命じられ、上田攻略を諦める。この時、上洛を命じる家康の使者は利根川の増水で到着が遅れ、秀忠軍は9月15日(10月21日)の関ヶ原の戦い本戦に遅参することになる
西軍の敗北は明らかなった同月中には徳川からの降伏・開城要請に応じた。
関ヶ原の戦後処理における処分では、徳川家康より昌幸・信繁父子には上田領没収と死罪が下される。昌幸は討死覚悟で籠城する決意を固めるが、東軍に属した長男の信幸(後の信之)とその舅である本多忠勝の助命嘆願で助命され、高野山への蟄居が決められた。
信濃上田の真田領に関しては信幸に与えられ、信幸は沼田2万7000石、上田3万8000石、加増3万石の合わせて9万5000石を領する大名となり、真田家の存続に尽くした。
10年余り続いた流人生活は昌幸の気力を萎えさせ、慶長16年(1611年)6月4日、九度山真田庵で病死した。享年65。
息子幸村は、高野山に蟄居を命じられるが抜けだし、大阪冬の陣・大阪夏の陣に参加。真田丸の砲撃や家康本陣突入などを行う。幸村の最期は松平忠直隊の鉄砲頭・西尾宗次の銃弾を浴び死去。
【織田秀信】…幼名「三法師」。清州会議で秀吉に擁立された信長の孫
織田 秀信(おだ ひでのぶ)
織田信長の孫。織田信忠の長男。幼名・三法師。岐阜中納言。
本能寺の変では父とともに京にあったが、前田玄以に護られて脱出に成功。変後の清須会議で羽柴秀吉に擁立されて織田家家督となる。1592年、岐阜城主になる。
関ヶ原の戦いでは西軍に属すが、東軍に城を攻め落とされて降伏。福島正則の取り成しで助命され、高野山へ蟄居。同地で没した。
関ヶ原の戦いでは、石田三成に美濃・尾張の2ヶ国を宛行うとの条件で勧誘されて西軍に加勢した。秀信が西軍についたことによって美濃の諸勢の大半はこれに従った。
秀信は、22日夜大垣城・犬山城に援軍を要請する一方で、岐阜城に籠城した。籠城戦は23日一日続いたが、前日の戦いで兵力が激減していた上、東軍にかつて岐阜城主だった池田輝政がいたこともあって敗勢は覆いがたく、秀信は秀則と共に自刃しようとしたが、輝政の説得で23日降伏開城した。
降伏した秀信に対する助命はいかがなものかという声も上がったが、家中に秀信家臣の縁者も多かった福島正則が「自らの武功と引き換えに」と助命を主張したため、合戦終結後に岐阜13万石は没収されて高野山へと送られた。
改易された秀信は高野山で修行を積むことになったが、祖父・信長の行った高野山攻めが仇となって当初は入山が許されず、10月28日まで待たされた。出家が許された後も迫害を受けた。
慶長10年(1605年)5月8日、高野山から出て、山麓に住む。追放ともされる下山の理由には僧を斬るなど自身の乱行が原因であるとの説があるが、秀信自身は仏教を迫害したことはなく、高野山追放は父親のとばっちりであるとする説もある。同年5月27日、向副で生涯を閉じた。この事からも、健康を害していたための下山療養とも考えられるが、死因は自害であるとも伝わる。高野山側では山を下りた5月8日を死亡日としている。享年26。