総大将 徳川家康 兵数 30000
戦は上手い、政治面も卓越している、機を逃さない目聡さ、健康面も強い、人望もある、譜代の家臣に恵まれている、強運、など戦国武将として必要な面全てが一定水準を超えていると思います。
ヤフーの知恵袋
家康自身も戦闘能力が高い!
家康の武術は一流の域に達していました。剣術は、新当流の有馬満盛、上泉信綱の新陰流の流れをくむ神影流剣術開祖で家来でもある奥平久賀に姉川の戦いから7年間師事を受けました。塚原卜伝の弟子筋の松岡則方より一つの太刀の伝授を受けるなど、生涯かけて学んでいました。三方ヶ原の撤退時も、武田の兵を騎射で何人も射ち倒して突破しています。
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水泳、射撃、馬術も一流の域に達していた
逃げ足の速さもトップクラス
家康は戦国時代でも1~2位を争う「逃げ足の早い」武将です。
「逃げる」と言う決断をする事も早ければ「逃げ足」そのものも驚異的な早さです。家康の生涯の戦いの中にはこの「逃げ足の早さ」で生命を拾っている局面が何度かあって、これが家康の強さに繋がっている事は事実です。
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総大将 徳川秀忠 兵数 38000
後の二代将軍
戦は得意ではなかったが将軍としては一流だった
江戸時代ではキリシタンの取り締まりを強化したり、反逆しそうな武将達の領土を没収したりした
江戸時代が長く続いたのは秀忠のお蔭でもある
兵数38000を率いるも上田城の合戦で大敗した
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。
9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。 これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされている。
出典:Wikipedia
側室は持たなかった
戦国武将の多くは一族を残すため、側室という第二の妻を持っていた
徳川秀忠は側室を持たず、妻はお江の方のみだった
一途な面も秀忠の魅力ともいえる
意外と筋肉質な身体だった
遺骨から推定される体格は、身長159cm程度で筋肉質であった。銃創の痕跡が複数見つかっている点から、敵の攻撃に直接曝されるような場所で指揮を執る戦法を多用していたこと、骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え抜くだけの体力、生命力を有していたことが推定されている。尚、死因は胃癌だったと考えられている[15]。大腿骨の桂状性、脛骨の扁平性の存在など、四肢骨の筋附着部の性状から判断すると、意外と思われるほど筋肉の発達がよく、十分に鍛錬された体である。頭髪は半白であるが、腕の毛とすね毛は濃厚とさえ思える程に黒々として、老境を感じさせない[16]。
出典:Wikipedia
徳川主力武将
徳川軍の主力【徳川四天王】が勢揃い!
本多忠勝 兵数 500
部下や同僚、婿に対しては優しかった
特に真田幸村の助命を嘆願したことでも有名
兜や甲冑、馬を黒で統一していることから、黒が好きなようだ
無傷の将であり、関ヶ原の戦いでも活躍した
関ヶ原の戦いでも傷を負わず、多くの将を打ち破った
若い武将の手助けも積極的に行った
榊原康政
関ヶ原の戦いでは秀忠の軍にいた
秀忠に「真田は捨て置き、家康様との合流が最優先です」と進言したが秀忠は「ここで逃げれば武士の恥だ!真田を討つぞ」と返された
その結果、真田軍に苦戦し関ヶ原の戦いに遅れた
秀忠は家康にかなり怒られしばらく面会しなかったと言われている
忠勝とは親友同士だった
本多忠勝とは歳が同じで、1番仲が良かった
井伊直政 兵数 3600
家康に対する忠誠心はかなり強く、傷だらけになるまで戦った
まるで戦隊のレッドのような武将
実はかなりのイケメン
関ヶ原で1番槍を入れる
開幕した瞬間、1人で西軍に突撃した
直政は先手を取るのがポリシーで、部下に厳しい面もあった
関ヶ原の戦いの2年後に亡くなる
しかし2年後、関ヶ原で負った傷が原因で破傷風を患い死去。享年42。
直政は佐和山城主であったため、石田三成の祟りではないかと噂され、それを聞いて激怒した家康は三成関連の建物などを全て破壊させている。佐和山藩は廃止され、新たに彦根藩が始まった。
出典:ピクシブ百科辞典
服部正就 半蔵の息子
父の半蔵は忍者ではなく槍の名手だった
服部 正就は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将。通称は半蔵、あるいは源左衛門で、一般に服部半蔵の名で知られている服部正成の長男。正室は松平定勝の長女松尾、子は服部正幸、服部正辰。官位は石見守。
出典:Wikipedia
豊臣の家臣達
石田三成と対立した武闘派たち
考えは違っても豊臣を守る気持ちは同じ
加藤清正
三国志の関羽のような猛将
正則とは兄弟のような関係
朝鮮出兵でも主力として活躍した
三成とはよく衝突しており、不仲である
関ヶ原では九州で戦っていた
加藤清正は関ヶ原の時には黒田如水とともに小西行長の居城や立花宗茂の柳川城などを開城して九州の西軍勢力を倒しています。
出典:Wikipedia
熊本城を作った
戦の達人でもあり、築城の名手でもあった
彼の作った熊本城は地震が起きても全壊しなかった
福島正則 兵数 6000
三国志の張飛を思わせる猛将
張飛と同じく酒が好きで、多くの戦いに参戦し多くの武将を撃破した
浮気がばれて奥さんに殺されそうになったこともある
徳川に1番槍を約束されていたが
しかし井伊直政が1番槍をとり、先を越される
藤堂高虎 兵数 2490
浅井長政、秀吉、家康、その他など数々の君主に仕えた
清正同様、築城の名手でもある
親友だった大谷吉継は西軍におり、複雑な気持ちだった
黒田長政 兵数 5400
この水牛の兜は後で正則に渡される
その代わり、長政は正則の兜を受け取った
また天才軍師・黒田官兵衛の息子である
細川忠興 兵数 5100
戦国一のヤンデレとしても有名
妻のガラシャが他の男と仲良く話していると、やきもちを焼きその男を殺したりした
伊達政宗
密かに天下統一を狙っており、家康はそれを知っていた
それでも処分しなかったのは、政宗の実力を高く評価していたからだ
政宗の真の目的は、天下を取り日本国王になることだった
関ヶ原では東北地方で戦っていた
西軍の上杉家重臣直江兼続率いる軍が東軍の最上氏の領内に侵入すると(慶長出羽合戦)、東軍に属した政宗は、最上氏からの救援要請を受けて叔父・伊達政景率いる3,000の兵を派遣し、9月25日には茂庭綱元が上杉領の刈田郡湯原城を攻略した[注釈 4]。
出典:Wikipedia
相手は上杉軍
戦国最後の戦い 大阪の陣にも参戦
慶長20年の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。基次は伊達家家中・片倉重長の攻撃を受けて負傷し自刃したといわれる。道明寺口の要衝小松山に布陣をする後藤隊を壊滅させた大和方面軍は誉田村に兵を進めるが、ここで伊達隊は真田信繁(幸村)の反撃を受けて後退を余儀なくされた。
出典:Wikipedia
最初は善戦するも後で真田幸村に退けられた
その真田幸村は家康の本陣まで突撃している