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大阪の陣

家康にとっては最後の大仕事だ

この戦いに勝利すれば、戦国の世が終わる

大坂の陣(おおさかのじん)は、江戸幕府と豊臣家(羽柴家)との間で行われた合戦。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)と、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣(おおさかなつのじん)から成る。

出典:Wikipedia

豊臣軍は日本中を敵にまわした

それでも戦う浪人達や豊臣家は本物の武士である

参戦武将

徳川家康

秀忠に将軍職を譲ったので将軍ではない

既に年老いているが、戦の腕前は健在である

大阪の陣では大筒を大阪城に撃ち込んだり、真田丸を封じるために和平交渉を申し込んだ

勝つためならどんな手も使う

外掘を埋めるのが講和の条件でした。

その作業自体も豊臣家が行う予定だったのですが、
徳川家の人が「時間掛かりそうだから、やってあげるよ」と作業を代行。

そんときに勢い余って(笑)内堀まで埋めちゃいました、ということです。
豊臣家は怒って家康にクレーム。家康「部下の手違いで…」。

出典:ヤフーの知恵袋

夏の陣では数で押し切り勝利する

しかし真田幸村に追い詰められて、自害を覚悟したこともあった
幸村は討ち取られたが、家康は幸村の武勇に感服した

徳川秀忠

江戸幕府の将軍

家康は既に将軍を引退しているので、秀忠の方が総大将

遅参のトラウマがあったせいか、大坂冬の陣では、呼ばれてもないのに、武器は、後発に任せ、数十人で、ダッシュで、吉田宿に駆けつけたそうです。

ついて来れたのは、駿馬の持ち主数名だけとか。
ここも、やはりお父さんに叱られました。
でも、、この人、総合的には、名君ですよ。
親父がやり散らかした江戸開拓をなんとかモノにしました。

出典:ヤフーの知恵袋

柳生宗矩

秀忠に剣術を指南した有名な剣豪

戦後は政治家として活躍

大阪の陣では秀忠の護衛を務めており、襲ってきた者達を斬り倒した

井伊直孝

戦後は、将軍の補佐役になる

秀頼、淀を自害に追い込んだ

夏の陣がおこると河内路を進撃し、そこにいた木村重成隊を激戦の末撃破し、重成の首を獲っている(若江の戦い)。5月8日、豊臣軍が壊滅し、豊臣秀頼らが山里曲輪に逃げこむと、そこを包囲。そこで秀忠の命を受け、一行を自害に追い込んだ。

出典:井伊直孝の紹介 - 大坂の陣絵巻

伊達政宗

東北を発展させた欧州王

秀忠からは信頼されており、一国二城が許された

慶長19年(1614年)の大坂の役(冬の陣)では大和口方面軍として布陣した。和議成立後、伊達軍は外堀埋め立て工事の任にあたる。その年の12月、将軍秀忠より伊予宇和郡に領地を賜る。翌年、慶長20年の大坂の役(夏の陣)道明寺の戦いでは後藤基次らと戦った。

出典:Wikipedia

上杉景勝

上杉謙信の跡を継いだ二代目

関ヶ原では伊達軍と戦ったが今回は組むことになった

慶長19年(1614)11月、大坂の陣がおこりました。景勝は、25日、鴫野に陣を布き、翌26日、戦闘が行われました。

この日、景勝は暁より夜まで大和川の堤に陣して、紺地日の丸の軍旗、毘の字の旗を押し立て、床几に座して観戦し、弾丸が雨と飛び来る中で少しも動じません。直江兼続は後備の軍を指揮して、戦況を監視し、これも陣にいて少しも動じません。先陣・ニ陣・前・右・左の各備の部将はよく指揮して敵を追いまくります。

この戦況を眺めていた家康は、さすが上杉軍であると感心しました。

出典:山形県米沢市|戦国武将と米沢市の観光情報

上杉の名に恥じぬ戦をした

立花宗茂 西国無双と呼ばれた英雄

数々の戦を経験し、生き延びた武将
朝鮮出兵にも参戦し、味方を勝利に導いた
関ヶ原では西軍の切り札だった

関ヶ原の後は浪人だったが、秀忠によって大名として復権した

大阪の陣では秀忠に陣の作り方などを助言している

戦後は島原の乱でも活躍している

本多忠朝

徳川最強の武将・本多忠勝の次男

父に負けないほどの強さをもち、戦では次々と敵を倒していった

忠朝は、逃げる味方を叱咤激励しながら一歩も引かず、果敢に攻める姿を見せていました。

しかし、その時、一発の銃弾が忠朝を貫き、その勢いで馬上から落下・・・

出典:今日は何の日?徒然日記

その後、豊臣側の猛攻により討ち死にしてしまった

真田信吉・真田信政

真田幸村の兄・信之の息子たち
信吉が長男
信政が次男

父の代わりに大阪の陣に参戦する

一部の足軽たちは略奪をしていた

一部の足軽【徳川側】は女を攫ったり、金を略奪した

また農民の首を斬り、敵の首として大将に渡した

後にその足軽たちは、江戸幕府に呼び出され処罰される

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