はじめに…
もののけ姫とは
この物語では
人と自然の対立が描かれている
中世(室町時代の頃)の日本。エミシの村に住む少年アシタカは、村を襲ったタタリ神と呼ばれる化け物を退治したが、最後の悪あがきから右腕に死の呪いを受けてしまう。
その正体は、何者かに鉄のつぶてを撃ち込まれ、人への憎しみからタタリ神と化した巨大なイノシシの神(ナゴの守)だった。アシタカは呪いのため村を追われ[3]、呪いを絶つためにもイノシシが来た西の地へと旅立つ。
旅の道中、乱妨取りに奔る地侍との戦いや、謎の男ジコ坊との出会いを経て、アシタカはジコ坊から聞いた神が住むという深い森がある地に向かう。
アシタカは山奥で倒れていた男達を助け、彼らの村へ連れて帰る。その村はタタラ場と呼ばれる、鉄を作る村であるという。
そこを治めているエボシという女は、石火矢と呼ばれる火砲を村人に作らせ、山に住む"もののけ"や、村の鉄を狙う地侍たちから村を守っていた。
アシタカが助けた男達も"もののけ"に襲われたもので、呪いを与えたイノシシの神に鉄のつぶてを撃ち込んだのもエボシだという。
彼等は鉄を作るために自然を破壊している自覚はあったが、シシ神に力を賜り大きな力を得た動物、即ち"もののけ"達を快く思っていなかった。
アシタカは、これ以上憎しみを広めるなとエボシに忠告するが、村人達にとってのエボシは、生きる希望を与えてくれる女性でもあった。
そのエボシの命を、"もののけ姫"が狙いにくる。その正体は山犬に育てられた人間の娘、サンだった。窮地に陥ったサンをアシタカは救うが、同時に彼は瀕死の重傷を負ってしまう。
倒れながらもアシタカは、生きろ、とサンに語りかけるが、人を憎むサンは聞く耳を持たずに、助けてくれたアシタカを殺そうとする。
しかし、アシタカから美しいと言われたサンは、動揺して思いとどまる。
サンはアシタカを、生と死を司る神、シシ神の前に連れて行く。シシ神はアシタカの傷を癒し、それを見たサンはアシタカを生かすと決める。
サンはアシタカを介抱するうちに、しだいに彼に心を開いていく。アシタカも、森と人が争わずに済む道は無いのかと、思い悩む。
出典:Wikipedia
後半から
シシ神が撃たれる!
その後
首を取り戻すため、動き出す
アシタカはエボシに戦いをやめて村に帰るよう伝えるが、エボシはかまわずシシ神殺しに向い、遂にその首をとる。するとシシ神の体から不気味な液体が大量に飛び散り、それに触れた者たちは死に、木は枯れてしまう。
やがて液体は津波のような勢いで山を埋め尽くし、森は枯れ果てて、タタラ場も壊滅してしまうのだった。サンは森が死んだと絶望し、人間に対する憎しみを爆発させる。
出典:Wikipedia
サンとアシタカは
首を取り戻す
シシガミは首を受け取り
森を再生させ、消えてしまう
しかし、アシタカはまだ望みはあるとサンを説得し、二人は協力して、シシ神の首を持って逃げようとするジコ坊を押しとどめ、首をシシ神に返す。
出典:Wikipedia
シシガミは本当に死んだのか?
生きている
シシガミは生と死両方もっている
サンの言葉に「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない。シシ神様は死んでしまった。」という言葉があります。
それに対してアシタカが「シシ神様は死にはないよ。生命そのものだから…生と死とふたつとも持っているもの…わたしに生きろといってくれた。」とあります。
アシタカの言う通り、生命そのもので「生」と「死」二つ持っているのであれば、「死」すらもシシ神の一部ということになり、シシ神が死ぬことはありません。そのため、シシ神は生きていると考えることができます。
別の姿で生きている
死んでません。
鼻に大きなホクロのある人(ジコ坊)が「見ろ。命を吸って膨らみすぎたのろまなシシ神だ。日に当たれば奴は消えちまう。」
と言いましたよね。
でもこれは朝日が出るまで首を返さなかったらのことです。
アシタカ達は朝日が出る直前ギリギリで首を返しました。この時点でディダラボッチから昼の姿(シシ神)に戻ればシシ神は今までどおりの昼の姿で過ごすことが出来るのですがシシ神の姿に戻る前に朝日が照らされジコ坊の言うようにディダラボッチは消えてしまいました。
でも消えたからといってシシ神が死んだわけではありません。
姿かたちは違ってもシシ神は「命そのもの」ですから。
また別の姿で森に住んでいると思います。
出典:ヤフーの知恵袋
シシガミは森を生き返らせた
首を取り戻した後、草木に命を与え
森を生き返らせた
もしシシガミが死んでいたら
森も死んだままだった
シシ神様は死んでないでしょう。
死んでないからデイダラボッチから出た液で一度生命を奪った地に緑が戻ったんだと思いますよ。
神様って世界を創る存在であってその後の世界には手出しをするものじゃないと私は思ってます。実際シシは森を守る事も人間を滅ぼす事もせず誰の都合でも動いてない。
最後エボシはアシタカをまた迎えようとしている事から恐らくそれまでほど無闇に戦争や自然破壊はしないだろうし人間たちがまた希望を持って生きて行く、という事は、サン、森との間に挟まれるアシタカの辛いであろうこの先を暗示してますね。
出典:ヤフーの知恵袋
死という姿に変わった
死は活動をやめてる状態なので
人には見えない
しし神は生でもあり死でもあるんだと思います
だから死、という姿に変わっただけ
生の部分は森になったのです
出典:ヤフーの知恵袋
死んだという声も…
人間は取り返しの
つかないことをした
首を取り戻した後、シシ神の姿はありません。シシ神の昼の姿(鹿の姿)であれば夜でもシシ神は行動することはできます。
しかし、シシ神の夜の姿(デイダラボッチの姿)であれば日光を浴びることができないため、昼にシシ神は行動することができません。
この事実を考慮すると、首を取り返した後に、昼の姿(鹿の姿)に戻っていないため、シシ神は死んでしまったと考えることができます。
シシ神は昼は鹿の姿で、夜はデイダラボッチ(透明な巨人)の姿だ、みたいなことをジコ坊が言っていました。
つまり普段なら夜間はデイダラボッチの姿で森を散歩して、夜明け前に池に行って昼用の鹿の姿になる。でも首を取り返そうとしている内に夜明けが来た→昼用の姿になっていない→死んでしまった、のではないかと。
言わば12時になったら問答無用で元のボロい姿に戻るしかなかったシンデレラのように、そういう決まり、というか制約の様なものがシシ神にはあったんじゃないでしょうか。
一応サンとアシタカから首を返してもらっているので、もし夜明けより前に池に戻って昼用の鹿に姿になっていたなら、何事もなかったように生き続けていたと思います。
出典:ヤフーの知恵袋
元の身体に戻れなくなった
生の部分が死んだからでは?
元の体に戻れる事が出来なくなったと思うような
時間を掛けて大きくなるのを、途中で首飛ばされて不完全な状態で無理矢理大きくなったせいで、皮が剥がれてしまった感じですし。
出典:ヤフーの知恵袋
肉体は滅びてしまった
首を返した後、夜が明けてもディダラボッチ倒れてたので、
多分あのときに肉体は滅びたのではないかと思いますが、
シシ神は人間や動物をはるかに超越した存在であり、
命そのものだから、生きることも死ぬこともないのではないかと私は思いました。
シシ神にとっては、肉体が滅びることはたいした問題ではないのではないかと思います。
出典:ヤフーの知恵袋
シシガミがいなくなった事で
普通の森になった
シシ神は生と死の象徴で、命を吸い取り、その命を新たに授けるという生死のサイクルをダイダラボッチの姿で行っていました。
そのダイダラボッチの姿は夜限定みたいで、日が昇ると鹿の姿になります。
首を奪われたことで暴走状態になり、鹿の姿に戻ることが出来なくなったシシ神は、朝日を浴びて消滅してしまう寸前で首を取り戻しましたが、暴走状態時に命を吸い取り過ぎてパンクしてしまいました。
パンフレットには「シシ神は月の満ち欠けと共に誕生と死を繰り返す」とあります。
パンクすることで草木は蘇ったけど、『穏やかな、恐ろしくない森』になってしまいました。
日本人はそうやって、恐ろしい森を恐ろしくない存在にして作り替えてしまいました。
宮崎駿はそのあたりを表現したかったようです。
宮崎駿はパンフレットのインタビューで、「結局、この映画は歴史の上で人間がやってきたことを再現してるだけ」と言っています。
シシ神は死んだわけではないけれど、パンクして吸い取り過ぎた命が弾けたことで、死んだ森が再生します。だけど恐ろしくない森(草原)になってしまった。それが日本人が歴史の上でやってきたこと。って感じです。
出典:ヤフーの知恵袋
1番可哀そうなのは
シシガミだった
普通に生活してるのに
いきなり首を撃たれた
もののけ姫見ましたけど
1番惨めで可哀想なのってシシガミ様じゃないですか?
人の都合で首を打たれて
取り返そうとしたら朝になって死んで
加害者である人間はこれから再建していこうみたいに
希望に溢れてるし
出典:ヤフーの知恵袋
シシガミの正体は何なのか?
生態系のバランスを保つ存在
シシガミの役割
・増えすぎた生き物には死を与え、数を減らす
・少ない生き物には、生を与え子孫を増やす
・悪い人間には罰を与える
シシ神とは、そのような人間たちと自然の共存のバランスを保つためにいる存在であり、バランスを崩すものを厳しく罰し、罪を悔い改めさせる役割を果たします。
人間に食われることを前提としての存在、アカシシの姿を借りてそのことを訴えているのではないでしょうか。
出典:シアター
動物にも罰を与える
乙事主は、森やシシ神を守るため
人間たちに総攻撃をしかけた
そのため多くの人間が死んでしまう
シシ神は、人間も必要な存在と考え
乙事主の命を奪った
シシ神は作品の中で、人間だけの命を奪い罰しているわけではありません。自然界に生きる、乙事主(おっことぬし)は森とシシ神を人間から守ろうとしているにも関わらず、その命を奪われました。
このことから、シシ神はもののけ達や自然界を守るだけの神というわけではなく、生きるものすべてに対しての神であるということがわかります。
出典:シアター
シシガミの能力
シシガミは、相手に命を与えたり
死を与えることができる
生と死を操る能力を持っていて、傷を癒したり命を吸い取ることができる。
ほか、水上歩行をする、威光だけでタタリ神の呪いを抑え込む、石火矢の弾が胴体を貫通しても即座に傷が治ってしまう、地上を歩くと一歩ごとに草が生い茂り、すぐに枯れていく……。
本作に登場する山の神々はあくまで知能を持った大きな獣に留まるが、シシ神だけは神に相応しい摩訶不思議な権能を秘めている。
出典:ピクシブ百科事典
デイダラボッチについて
もののけ姫のだいだらぼっちは決して悪い存在ではなく、山や沼を作ったり、人を助けたりする、良い神様として伝えられています。
もののけ姫の作中においてだいだらぼっちは、森の中を徘徊する存在として描かれていました。
ところが、ジコ坊たちがシシ神の首を奪ったせいで、だいだらぼっちは周囲に大きな被害をもたらしてしまいます。
実は、もののけ姫ではシシ神様(だいだらぼっち)の首が不老不死の力を持つと言われており、ジコ坊たちはこれを狙っていたのです。
正確に言えば、シシ神は月の満ち欠けと共に死と再生を繰り返す存在であり、決して死なない存在ではないのです。
ですが、人間からすれば、だいだらぼっちは何度も生まれ変わる=不老不死と見えたのでしょう。
エボシはなぜシシガミを殺そうとしたのか?
殺そうとした理由
・山犬や猪に力を与えるため
・シシガミを殺せば、もののけ達は弱くなる
・シシガミの力を恐れているから
>1:烏帽子御前は何故、獅子神を殺したのですか?
ジコ坊が属していた師匠連という謎の組織を通じて大和朝廷とそういう取り決めをしていたからです。
シシ神の首は不老不死の力が宿ってると信じられていた為、天朝(天皇)がそれを欲していたようです。
『もののけ姫』の時代、侍が台頭し、朝廷は衰退しており
シシ神の首を手に入れ巻き返しを狙っていたのかもしれませんが
詳細は語られていません。
エボシはそれと引き換えにジゴ坊配下の石火矢衆を借り受け
もののけを森から追い払いタタラ場を開き製鉄業を営んでいます。
個人的にもシシ神を倒せばもののけたちから力をそぐことができ
タタラ場に敵対する勢力をアサノ公方といった侍や、
いずれ敵となるであろう朝廷をバックにした石火矢衆や唐傘と呼ばれる戦闘集団など
人間のみに絞れると考えたようです。
自分も生きてタタラ場に戻るつもりはなく
その為、自分が居なくなった後のタタラ場の自衛の為
女にも扱える小型軽量の石火矢を開発していたようです。
もののけ姫のメッセージ
「森の再生」という希望を予感させる描写の結末ではあるが、最後のサンとアシタカの会話でのサンの「よみがえってもここはもうシシ神の森じゃない。
シシ神さまは死んでしまった」という台詞にあるように、喪われた自然は二度と同じ姿には戻らないというメッセージもまた示唆されている(宮崎駿監督曰く、「蘇った森はもうかつてのような神や精霊が棲む神聖で恐ろしい森(=原生自然)じゃない。人の手が入った明るく無害なただそれだけの森(=里山)」とのこと)。
出典:ピクシブ百科事典