2019年1月19日
「麒麟がくる」がスタート
『麒麟がくる』(きりんがくる)は、2020年(令和2年)1月から放送予定のNHK大河ドラマ第59作
出典:Wikipedia
大河ドラマとして初めて智将・明智光秀を主人公に、激動の戦国初期を描く壮大な歴史ドラマです。
明智光秀は
多くの群雄と出会う
織田信長をはじめ羽柴秀吉、徳川家康、足利義昭など多くの群雄と出会う。
光秀の謎に満ちた生い立ちにもスポットを当て、英傑たちの父親の時代をも描き斎藤道三、足利義昭、織田信長、徳川家康らの蠢動から活躍を見せてゆく群像劇として制作
出典:Wikipedia
第1話の光秀
火中に飛び込み子供を助ける
@uzumasanoaki 京の都で戦の中家が焼かれ子供が、取り残されているのを光秀が、命を投げ出し助けるシーン良かったなあー‼️なんか、大河これからが、楽しみです‼️😂
自ら火中に飛び込み縁もゆかりもない子供を助ける立派な善性と矜恃の持ち主である光秀が、このあと上司の命令で女子供もろとも比叡山を尽く焼き討ちにするの極めてエモいな。まさに「好き嫌いで主君に仕えている訳ではない」という台詞の回収だしやがて矛先は本能寺へ。
#麒麟がくる
のちに
織田信長と出会う
光秀は、斎藤道三をはじめとした何人もの主君を渡り歩き、最終的に織田信長の配下になります。
出典:「敵は本能寺にあり!」彼はなぜ織田信長を裏切ったのか!? 2020年大河ドラマの主人公「明智光秀」の生涯を追う!|株式会社 学研ホールディングスのプレスリリース
いろいろあったけど麒麟がくるついに始まったぞ!!!明智光秀は本来忠義に厚い男だが織田信長を裏切った訳をどのように書くのかが見どころだな。 #麒麟がくる
数々の戦で手柄を上げる
光秀は、天正3年(1575年)の高屋城の戦い、長篠の戦い、越前一向一揆殲滅戦に参加する
出典:Wikipedia
膨大な資料を丁寧に検証して、ほぼ史実準拠のストーリー進行というスタイルのなか、ひときわ異彩を放っていがのが明智光秀と、その必殺戦法「殺し間(ころしま)」であろう。
細長い地形の両側に鉄砲の射手を配置。
弾道が交差するように狙いを定め、誘い込んだ敵の部隊を一斉射撃で壊滅に追い込むという、恐ろしい戦法である。
出典:光秀の必殺戦法「殺し間」火縄銃での実現は可能か?漫画『センゴク』考察 - BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)
武田氏を滅ぼし
天下統一に迫る
甲州討伐に圧勝して武田家を滅亡に追いやった織田信長、天下統一は間近となった。
出典:天下統一を目前にして倒れた信長の無念「本能寺の変」を元塾講師が分かりやすく5分で解説 - Study-Z ドラゴン桜と学ぶWebマガジン
光秀は
本能寺の変を起こす
本能寺に火を放ち、信長を自害に追い込んだ。
本能寺の変(ほんのうじのへん)は、天正10年6月2日(1582年6月21日)早朝、京都本能寺に滞在していた織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃した事件である。
信長は寝込みを襲われ、包囲されたのを悟ると、寺に火を放ち自害して果てた。
出典:Wikipedia
今年の大河、本能寺の変に向かってクライマックス来る感じなのかな
〜の変が大河のゴールになるなら乙巳の変も大河ドラマ化しないかなあ
とっても胸躍るクーデターなんだし
山崎の戦いで
秀吉に敗れる
中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも、致命傷を受けて自害したともされる。
これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」とも言う。
出典:Wikipedia
しかし死んでいなかった
光秀は
天海上人になる
「敵は本能寺にあり」。
その言葉を発し、かの織田信長を討ち果たした明智光秀。
陰陽道や風水に造詣が深く、徳川家康の側近として江戸の発展に関与した南光坊天海。
この二人が、実は同一人物であるという説が存在しているということをご存じでしょうか?
明智光秀は教科書では信長死すの報せを聞いた豊臣秀吉に追い詰められ、山崎で土民に討たれたということになっています。
1582年の出来事でした。
しかし実は光秀は生きていて、天海という名で徳川家康に仕え、江戸時代の動乱に深く関わった・・・。
なぜそんな疑惑が持ち上がっているのかというと、それにはいくつかの理由があります。
光秀の位牌が納められている寺(慈眼寺)と天海の戒名(慈眼大師)が同じ
100歳まで生きる
南光坊天海の生涯の特徴は、前半生をどのように生きたかがはっきりしないことと確実に100歳を超える長寿であったことです。
天海はその出自からして全くの謎ですが、確実なのは比叡山出身の僧であったこと。
光秀という僧侶は存在していた
比叡山には数多くの武将が寄進したとされる石碑が残っているのですが、そこには「光秀」と名が書かれた石灯篭もあります。
比叡山松禅寺にあるその石灯篭の日付は慶長20年(1615年)2月17日。
山崎の戦いで光秀が亡くなったとされるのは天正10年(1582年)。
にも関わらず光秀の名が残っているのはとても不思議です。
僧侶の名簿には俗名・光秀という僧侶がいたということもはっきりわかっています。
最も、これが「明智光秀」その人であるかという確証は全くとれていませんが、かつて『世界ふしぎ発見!』の2000年8月6日放送分で、光秀と天海が書いたとされる書状の筆跡鑑定が行われました。
その際にいくつか似通った字があり、専門家曰く「一緒に生活しているような人でないとこのように似た字を書くことはできない。おそらく2人は近親者である可能性が高い」との結論が出されました
家康は光秀を
尊敬していた
徳川家康は武田信玄と並んで明智光秀を最終的にはとても尊敬している人物でした。
家康は家臣の水野勝成に「光秀に倣って行動するように」と光秀の行動を家臣に見習わせるようにしていました。
これもまた俗説に過ぎませんが、家康と天海が初めて出会った際、彼らはまるで元から知り合いだったかのように4時間も話し込んでいたとされています。
東照宮に光秀の家紋が!
ご存知の通り、徳川家の家紋は葵。
しかしそこにわざわざ明智家の家紋である桔梗紋を象ることに違和感を感じるというのです。
明智側についた京極家は西軍に降伏
しかし戦後加増される
山崎の戦いで明智側についた京極家は、関ヶ原の戦いの折に西軍に降伏したにもかかわらず戦後加増された。一方、光秀寄騎でありながら山崎の戦いで光秀に敵対した筒井家は、慶長13年(1608年)に改易されていること。
出典:Wikipedia
明智光秀の孫の織田昌澄は豊臣側に加勢
戦後助命される
明智光秀の孫の織田昌澄は大坂の陣で豊臣方として参戦したが、戦後に助命されていること。
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春日局が乳母に選ばれた理由
父親が光秀の家臣だったから
徳川家光の乳母には、明智光秀の重臣の斎藤利三の子の春日局が採用され、家光の子の徳川家綱の乳母には、明智光秀の重臣の溝尾茂朝の孫の三沢局が採用されていること。
出典:Wikipedia