映画.com掲載のスティーブン・ユァンのインタビュー記事から
アメリカ南部でひたむきに生きる韓国系移民一家を描いた「ミナリ」が公開中だ。主人公である一家の父親ジェイコブ役を演じたのは、大ヒットシリーズ「ウォーキング・デッド」や「バーニング劇場版」のスティーブン・ユァン。今作でアジア系アメリカ人として初
今作では、いわゆるマジョリティや、アメリカが移民を見る眼差し、移民の苦しみや抑圧されるさまによって、この家族が何者かを定義付けていません。移民の物語でよくある、「こういう苦しみがあって、だからこの家族は……」という風には描かれていないことが素晴らしいと感じました。彼らの存在にも価値があるという、本当にシンプルな声明のような作品です。とても新しく大胆で、勇敢で、清々しい企画だったので、私もこの作品の一員になりたいと思いました。
アメリカでは、さまざまなストーリーや経験を区分けするために、多くの壁を作ってしまうことがあります。それはある程度有益なことではありますが、ときには自分の人間性を見ることを妨げ、実は私たちは同じことを少し違う方法で行っているだけで、結局は同じ人間であるということを忘れさせてしまいます。
崔盛旭(チェ・ソンウク)氏によるサイゾーウーマンの記事から
近年、K-POPや映画・ドラマを通じて韓国カルチャーの認知度は高まっている。しかし作品の根底にある国民性・価値観の理解にまでは至っていないのではないだろうか。このコラムでは韓国映画を通じて韓国近現代史を振り返り、社会として抱える問題...
80年代、「アメリカン・ドリーム」が本格化(中略)象徴するのがジェイコブ夫婦の仕事「ヒヨコ鑑定」であった。韓国では80年代、「ヒヨコ鑑定士」という資格が人気を博し、ヒヨコがオスかメスかを鑑定するスピードと正確さを競い合う大会も開かれ、優勝者は新聞等で大きく取り上げられた(ちなみに、鑑定されたヒヨコは、卵を産むメスのみが選別され、役に立たないオスはそのまま廃棄される)。いささか滑稽にも見えるこの資格がこれほどまでに人気だったのは、「アメリカ移民の近道」として大々的に宣伝されたからにほかならない。小さな手と器用さ、正確さ、真面目さが必要とされるヒヨコの性別鑑定には、大柄なアメリカ人よりもアジア系のほうが適格だったようで、韓国人はそこに目を付けたのだ。
80年に起こった光州事件は、実際に多くの韓国人が「韓国を捨てる」要因ともなったし、今現在、光州事件で犠牲を被った証言者の中には、アメリカやカナダへの移民が少なくないのだ。もちろん、ジェイコブのセリフから彼の事情を特定することはできないが、彼らが軍事独裁から逃れてアメリカにやって来たという可能性は十分に考えられる。
「ミナリはどこにでもよく育つ」というおばあさんの言葉通り、一度移民をしてしまえば、どうにかこうにか、韓国での暮らしよりはマシな人生が待っている――韓国人は、今でもそう信じているのではないだろうか。
伊東順子氏による集英社新書プラスの記事から
『ジョイ・ラック・クラブ』がヒットしていた(90年代中)頃、ソウルからアメリカ行きの飛行機に何度か乗ったことがある。そこで目撃したのは、後ろの方で車座になって花札をする韓国のおばあちゃんたちだった。その頃の飛行機はまだ煙草も吸えたし、今よりもずっと「治安」が悪かった。酔っ払って客室乗務員の絡む日本人男性も国賊モノだったが、花札のおばあちゃんたちに対しても韓国メディアが「恥ずかしいからやめてくれ」と再三の注意を促していた。
ミナリは韓国語で、セリという意味だ。(中略)日本のセリと韓国のミナリでは、食材としてのイメージがずいぶん違う。韓国南部の広大なミナリ畑、市場でのミナリの山、あるいは海鮮鍋に投入される大量のミナリ。日本では「セリ、ナズナ……」と春の七草のか細いイメージだが。韓国のミナリはもっと力強い。「具合の悪い時はミナリを食べるんです。特に我々慶尚道の人間はね、ミナリを食べれば大抵の病気は治ってしまうんです」という話を聞いたのは、慶尚南道彦陽に行った時のことだった。(中略)実際に映画を見終わって感じたのは、「それはあまり重要ではない」ということだ。むしろ「ミナリ」が謎めいたキーワードであることが、この映画の本質に近づけるような気がする。
日本では移民というと過去の物語のようだが、韓国では現在進行形であり、とても身近な話題だ。なにしろ「海外に親戚がいない韓国人はいない」と言われるほどで、韓国政府は「海外同胞約700万」という言い方をする。(中略)一時期、「母国人口との比率ではユダヤ人に次ぐ」というフレーズもよく聞いた。(中略)当時も今も米国が求めているのは「高度の専門職や技術者」であり、1970年代には医師や薬剤師なども多く移民した。その中で特別なスペックをもたない一般人にも取得しやすい資格、それが「ヒヨコの性別鑑定士」だったのだ。
「だから男は成功しなければいけないのだ」と言う、この父親の意識こそが「韓国的家父長制」のある意味での象徴ともいえる(中略)その対局にあるのが「水辺に植えられるおばあちゃんのミナリ」である。火と水、この相反する二つの象徴が映画の中では強力なメタファーとなっている。
この映画のベースにキリスト教的な世界観があるのは自明である。リー・アイザック・チョン監督は敬虔なクリスチャンであり、韓国名はチョン・イサクだ。そして主人公である父親はジェイコブ、つまりヤコブである。これはイサクとヤコブの物語であると読み解けば、映画からはまた別の世界が見えるだろう。十字架を背負っている不思議な隣人も、唐突に見える蛇の出現なども、聖書の物語に回収すれは非常にわかりやすい。(中略)韓国では、映画をキリスト教と結びつけることは、無用な軋轢を招くことにもなる。したがってメディアも評論家もその点については慎重だ。
これが「父方のおばあちゃん」だったら家族を救えなかったかもしれない。妻の大変さは言うに及ばず、さらに娘のアンにいたっては相当不条理な目に合うのは想像に難くない。1980年代の韓国の家族がどんなふうだったか。それは『82年生まれ、キム・ジヨン』という小説に詳しい。(中略)そもそも、この映画でお姉ちゃんの存在はどうしてこんなに希薄なのか? 彼女は家族の再生の物語にどう参加していたのか? 監督は「誰もが共感できる家族の物語を作った」というが、納得できない人も多いのではないか?