▼昭和41年、日本国内航空がボーイング727を2機購入
日本国内航空時代のJA8315
その後日本航空へリースされ「よど号」と命名される。
日本国内航空時代の愛称は「羽衣」。
日本国内航空のもう1機のボーイング727 JA8314
こちらも日本航空へリースに出される。
日本航空での愛称は「てんりゅう」
日本国内航空時代の愛称は「天女」。
日本国内航空のボーイング727は2機とも日本航空にリースされる。
こちらはよど号 JA8315
当時の国内線の主力機、ボーイング727。手前から3機目がよど号。
▼昭和45年3月31日、よど号ハイジャック事件発生
1970年3月31日、羽田空港発板付空港(現福岡空港)行きの日本航空351便(愛称「よど号」)が赤軍派を名乗る9人(以下、犯人グループ)によってハイジャックされた。
犯人グループは朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へ亡命する意思を示し、同国に向かうよう要求した。
運航乗務員を除く乗員と乗客は福岡とソウルで順次解放されたものの、運輸政務次官山村新治郎が人質の身代わりに搭乗し、運航乗務員と共に北朝鮮まで同行した後に帰国した。
その後、英雄視され選挙に当選、大臣に上り詰めた後、刺殺される。
▼使用機材
使用機材:ボーイング727-89
機体記号:JA8315
このJA8315は日本国内航空が1965年に導入した機体(「羽衣号」の愛称があった)で、翌年に日本航空に路線ごとリースされていた。
コールサイン:Japan Air 351
フライトプラン:羽田空港発板付空港(現在の福岡空港)行
▼運航乗務員
乗員:7人
コックピットクルー:3人
機長:石田 真二(いしだ しんじ)
副操縦士:江崎 悌一(えざき ていいち)
航空機関士:相原 利夫(あいはら としお)
客室乗務員:4人
神木 広美(かみぎ ひろみ)
沖宗 陽子(おきむね ようこ)
久保田 順子(くぼた じゅんこ)
植村 初子(うえむら はつこ)
乗客:122人(テロリスト9人を除く)
▼-事件の経緯-
-経緯-
昭和45年3月31日、羽田発福岡行き日本航空ボーイング727型機、゛よど号゛(乗客121人、乗員7人)が定刻の午前7時21分に羽田を離陸した。
およそ12分後の7時33分頃、共産主義者同盟「赤軍派」、リーダ田宮高麿ら9人が日本刀などで乗員を脅し「平壌(ピョンヤン)へ行け」とハイジャックした。
石田機長は「この機は国内線専用だから、北朝鮮に行くには燃料補給が必要だ」と犯人側と交渉し午前8時59分、福岡空港へ着陸した。
犯人達は、乗員・乗客が機外へ出ることを禁じ燃料補給をした。警察との交渉で、女性・老人・子供の23人を降ろして、午後1時58分、福岡空港を離陸し朝鮮半島へ向かった。
1970年3月31日午前7時33分に共産主義者同盟赤軍派が起こした日本航空便ハイジャック事件。
日本における最初のハイジャック事件である。
羽田空港発板付空港(現在の福岡空港)行きの日本航空351便が、富士山上空を飛行中に日本刀や拳銃、爆弾など武器と見られる物を持った犯人グループによりハイジャックされた。
赤軍の一部は操縦室に侵入して相原航空機関士を拘束、石田機長と江崎副操縦士に平壌に向かうよう指示した。
この要求に対し機長は「運航しているのは国内便であり、北朝鮮に直接向かうには燃料が不足している」と赤軍に説明して福岡へ。実際は予備燃料を使用すれば行けた。
自衛隊機が故障を装い滑走路を塞ぐなどのいくつかの工作を行う。
焦った犯人グループは離陸をせかしたが、機長の説得によって人質の一部を解放することに同意。
午後1時35分に女性・子供・病人・高齢者を含む人質23人が機を降りた。
同日午後1時59分、よど号は北朝鮮に向かうべく板付空港を離陸。
飛来した韓国軍の戦闘機の操縦士は機長に向かって親指を下げ、降下に入るようにとの指示。
韓国軍は無線で平壌管制と偽り、ソウル近郊にある金浦国際空港へ着陸させた。
-トリック-
石田機長は、犯人に気付かれないように、管制塔との交信で韓国の首都空港である金浦空港へ向かい、午後3時18分に着陸した。
ここで犯人が機外に出たところを一気に逮捕する計画であった。犯人側は、平壌空港に着いたと思い万歳をしたという。
ところが、機体の窓から見ると北朝鮮に居るはずがない米兵がウロウロしているところを目撃。韓国軍兵士が北朝鮮の軍服を着たり、北朝鮮旗を揚げるなど偽装したが簡単に見破られてしまった。
韓国兵は朝鮮人民軍兵士の服装をして、「平壌到着歓迎」のプラカードを掲げるなどの偽装工作を行っていた。
しかしメンバーの一人が金浦国際空港内にノースウエスト航空機などが駐機しているのを発見し異状に気付く。
-北朝鮮へ-
この偽装工作で犯人は激怒、態度を硬化させた。
乗客とともに北朝鮮へ行くことを譲らない犯人に対して、運輸政務次官の山村新治郎が「自分が身代わりになる、その代わり乗客を解放してほしい」との希望が入れられ、4月3日午後、山村政務次官と入れ替えに乗客99人と乗員4人が解放された。
同6時4分、よど号は国交の無い北朝鮮へ向かった。石田機長は当然北朝鮮への航路は未知のことである。
北朝鮮の迎撃にあうかもしれないという恐怖と絶対に日本に帰るとの気持ちが複雑に入り混じっていたと言う。
4月3日の午後6時5分によど号は金浦国際空港を離陸、北緯38度線を越えて北朝鮮領空に入った。
機長は戦争中に夜間特攻隊の教官をしていた経験を生かし、肉眼で確認できた小さな滑走路に向かい、午後7時21分に着陸した。
この滑走路は平壌郊外にある朝鮮戦争当時に使用されていた美林(ミニム/ミリム)飛行場跡地だったと言う。
武装解除により機内に残された日本刀、拳銃、爆弾などは、全て玩具や模造品であったことが後に判明した。
よど号に乗っていた犯人グループ9人、乗員3人、人質の山村の計13人の身柄は北朝鮮当局によって確保された。
よど号が到着した後、北朝鮮側は態度を硬化させ、「乗員や機体の早期返還は保障できない」と表明。
日本政府がなすべきことをせず、自分たちに問題を押し付けたとして非難した。
また犯人グループと乗員、山村政務次官に対しては公開による尋問が行われ、長期間の抑留が想定される厳しい状況になった。
ただし、乗員と山村に対して行われた尋問は形式だけのものだった。
4月4日、北朝鮮は再度日本を非難をする一方で、「人道主義的観点からとして機体と乗員の返還を行う」と発表。
同時に“飛行機を拉致してきた学生”に対し必要な調査と適切な措置を執るとして、犯人グループの亡命を受け入れる姿勢を示した。
これを受け、日本政府は北朝鮮に対し謝意を示す談話を発表した。
グループのメンバーは警察庁により国際指名手配されている。
よど号は、1時間20分後に平壌近郊の美林空港(軍施設)に着陸。全員が平壌市内のホテルに収容された。北朝鮮は、4日になって乗員3人と山村政務次官及び機体の返還を発表。
▼1970年4月5日 よど号は帰国を果たす
人質帰国
翌日4月5日早朝、乗員たちは出発準備のために美林飛行場へ移動する。
ところが、北朝鮮にはボーイング727に対応するスターター(補助始動機)がなかったため、一時は出発が危ぶまれた。
日本航空はモスクワ経由でエンジンスターターを届けるべく手配を開始したが最終的には圧縮空気ボンベを現地で調達し車両用のバッテリーで機内のバッテリーに充電を行いエンジンが始動できた。
空港を離陸したよど号は、北朝鮮側から飛行経路を指示されそのエリアを通過後、日本国内上空からよど号を呼ぶ日航機を経由して無線で脱出を報告。
直接羽田へ向かう事を連絡した機長、副操縦士、航空機関士、山村政務次官の4人を乗せて帰路に就き、美保上空を経由し羽田空港に到着。
彼らが無事に帰国したことにより事件は一応の収束を見た。
この日の朝にNHKが放送した報道特別番組はビデオリサーチ・関東地区調べで40.2%の視聴率を記録した。
4月5日早朝、機長、副操縦士、航空機関士、山村政務次官の4人を乗せて帰路に就き、美保上空を経由し羽田空港に到着。
1992年4月12日、山村新治郎は、自民党訪朝団長として北朝鮮への訪問を翌日に控える中、
精神疾患を患っていた次女により刺殺された。
柴田泰弘と田中義三の2人は日本に帰国した後に裁判で有罪判決を受け、服役し出所後死亡。
現在北朝鮮にいるのは小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志郎の4人。
無事4月5日に山村氏らは羽田空港に帰着した。
一方、田宮らハイジャック犯は、本人たちの希望通り北朝鮮への亡命が認められた。
当時の赤軍派に対する捜査網は日々厳しさを増しており、地下組織を支えることが困難と判断、北朝鮮からキューバなど共産圏へのルート開拓を目指してハイジャックしたものと見られる。
田宮らハイジャック犯は、北朝鮮でも特別待遇扱いされ、家族との手紙のやりとりや学習などを通して自己反省しているとも伝えられている。
また、30年が経ち、老後の不安から「無罪帰国」を希望しているとも言われている。
ハイジャックされた日本航空・よど号
美林空港に到着後、武器を提出している赤軍派の高宮ら
26 - 赤軍派 よど号 ハイジャック事件 - 1970
出典元:YouTube
▼ハイジャック機のその後
日本航空の鶴丸塗装に変更されたJA8315
昭和47年にボーイング727は東亜国内航空に返却される。
東亜国内航空では「たかちほ」の愛称が付いた。
東亜国内航空では次期主力ジェットをDC9に決定した為ボーイング727は売却される事になった。
機体記号:JA8315
このJA8315は日本国内航空が1965年に導入した機体(「羽衣号」の愛称があった)で、翌年に日本航空に路線ごとリースされていた。
日本国内航空が東亜航空と合併して東亜国内航空となった後の1972年に返却され、「たかちほ号」として1975年初めまで使われその後日本国外の航空会社に売却された。
▼海外へ売却後のよど号 JA8315
機体
ハイジャックされたよど号(製造番号19139/255)の所有者は日本国内航空で、日本航空に僚機1機とともにリースされていた。
そのため同機につけられたボーイング社によるカスタマーコードは「89」であった。なお日本国内航空時代の愛称は「羽衣号」であったが、日本国内航空と東亜航空が合併したあとに発足した東亜国内航空への返却後は「たかちほ」の名で運航された。
この機体はドイツやアメリカなど世界各国へ転売が繰り返された後、2004年8月にコンゴ民主共和国にあるコーザ航空 (CO-ZA Airways)に売却され、キンシャサのヌジリ国際空港をベースにVIPフライト機として使用されていた(機体記号 9Q-CBF)。
しかし2006年頃にコーザ航空が倒産して以降コンゴ国内の空港に放置されている。
なおアメリカでチャーター機として使用されていた頃(機体記号N511DB)、映画『エニイ・ギブン・サンデー』の中でチームが移動する際にチャーターした機体としてよど号が使用されている。
JetPhotos.Net Aircraft Census Database
Boeing 727-89
9Q-CBF
Aircraft History
REG OPB DATE COMMENTS
JA8315 Japan Domestic 1966-04-19
JA8315 Japan Airlines (JAL) 1966-07-01 Bought
JA8315 TOA Domestic Airlines 1972-04-01
D-AHLSHapag-Lloyd 1976-03-18
D-AHLSHapag-Lloyd 1984-01-12
D-AHLSGermania 1986-06-01 New Name
D-AHLSHapag-Lloyd 1987-12-21
D-AHLSAir Services International (ASI) 1991-08
VR-BRRAir Services International (ASI) 1991-r10 Re-registered
VR-CRBAir Services International (ASI) 1992-05-30 Re-registered
VR-CDBAir Services International (ASI) 1993-04-17
N511DBMVP Air Tours 1994-07
N511DBViscount A.S. 1994-10-07
N511DBSun Pacific International Airlines 1996-11-01
N511DBRyan International Airlines 1997-07-02 Leased
N511DBLaker Airways 1998-12 Leased
N511DBStar Air Tours 1999-09-01 Leased
N511DBDB Air 2001-12-27
N511DBInterflight (Belgium) 2002-03-22
N511DBGlobal Airways 2002-08-17
3D-JNMTranstel Airlines 2003-01-25
9Q-CBFCo-Za Airways 2004-08-21
出典:http://jetphotos.net/census/aircraft2.php?msnid=727-19139
Hapag-Lloydに売却されD-AHLSとして活躍していた頃のよど号
N511DB ビジネスジェット機に改装
9Q-CBF コンゴでビジネスジェット機
▼2012年に解体される
2004年(平成16年)8月、コンゴ民主共和国にあるコーザ航空(CO-ZA Airways)が取得し、キンシャサのヌジリ国際空港をベースにVIPフライト機として使用されていた(機体記号 9Q-CBF)。しかし2006年(平成18年)ごろにコーザ航空が倒産して以降、コンゴ民主共和国内の空港に放置され、その後2012年に現地で解体された。