▼クルマの存在によって人生に輝きが増すこともある 今回の主役は日産スカイラインGTR (R32)
スカイラインGT-R(SKYLINE GT-R 、スカイライン ジーティーアール)は、かつて日産自動車がスカイラインの最上級、最高級グレードとして生産・販売を行っていたスポーツカーである。
愛称は「アール」「スカG-R」「GT-R」のほか、各代の愛称・型式でも呼ばれる。
1989年5月22日、8代目スカイライン発表。GT-Rを含む4WD車は8月発売とアナウンスされた。 1989年8月21日発売。型式はBNR32
先代KPGC110の生産終了より実に16年ぶりとなるGT-R復活であり、当時日産で行われていた901運動の集大成として開発されたR32型GT-Rは、ATTESA E-TS、Super HICASといった当時の最新デバイスに加え、エンジンに専用設計されたRB26DETTを搭載し、日産・フェアレディZ(Z32型)・インフィニティ・Q45(G50型)とともに、日本初の300PS車としてトリオで発売される予定であったが、当時の諸事情により実施された自動車馬力規制により、いずれも日本向けは280PSとされた。
▼グループAで常勝 レースに勝つ為のGTR
1990年にはグループA参戦マシンのホモロゲーション用モデルとして500台限定でGT-R NISMOが発売され、同年よりR31型スカイラインGTS-Rに替わり参戦した全日本ツーリングカー選手権においてデビューウィンを果たす。
参戦初年度でありながら、年間を通してカルソニックスカイラインを代表とするGT-Rの強さを印象付け、世界中で最強を誇っていたフォード・シエラRS500を全日本選手権から駆逐し日本国内のみならず、日本国外の自動車レースも席巻した。
その後、全日本ツーリングカー選手権がFIAのクラス2規格(排気量2,000ccまでの4ドアセダン車両をベースにしたJTCC)で行われることが決定したため1993年以降は全日本GT選手権に戦いの場を移すこととなる。
ほかにグループAより改造範囲の狭いグループNに対応するため、主にブレーキ系の性能を向上させたVスペック・VスペックIIが発売されている。
▼突然現れたスーパーマシン、スカイラインGT-Rにはまり借金をしてでも人生のすべてをGT-Rに捧げた若者も少なくはなかった
俺は実家がかなりデカイ車屋ってこともあって俺はかなりの車好きだったのよ。
だから子供の頃レーサーなりたくてカート乗ってたし、親父の手伝いなんかもよくやってた。
親父の跡を継ぐ予定だった俺は高校卒業したあと、東京の結構有名な整備工場(グループAとかにも出てた)に親父のツテで就職したのよ
昼は整備、夜は勉強&先輩の車いじりなんかをしてた。
そんな俺の夢はいつか自分の車を持つことだった。
1989年の事だ、NISSANからGTRが復活したんだ。
凄いって噂は聞いてたけどあんまり信じてなかったおれは翌90年のレースでGTRがトップ独占した事がきっかけでGTRが欲しいと思った。
いろんな所から借金してGTRを買った。初めての自分の車だったよ
▼借金を重ねてGTRは800馬力のモンスターに 最高に幸せだったが彼女の存在も・・・・
俺は更に借金を重ね、自分が学んだ全てをGTRにつぎ込んだんだ
93年頃で800馬力オーバーのモンスターで俺は首都高を走ってた。
借金はまだかなり残ってたけどおれは幸せだった。
そんな俺にも彼女がいた。付き合って3年、結婚したいとも思ってた。ただ、俺には600万近くの借金があった。彼女には言ってなかったが(知ってたらしい)どうにかしなければなかった。
▼そしてGTRとの別れ GTR+退職金で700万円出すといわれる
94年の夏、俺は社長に呼び出された。
酒の席で彼女の事、借金の事なんかを様々相談とかしていたが、真面目に呼び出された事はなかった。
社長は、お前はもう十分一人前だと、もう家を継げるって言ってきた。そして、お前がもし借金を返したいって言うならお前のGTR+退職金で700万出すって言ってきた。
悪い話じゃなかったし、借金無くせば結婚もできる。どちらにせよそのうち実家に帰る予定だったし、いい機会だと思った。
俺は次のオーナーのために、精一杯の整備をした。エンジンはOHしたし、消耗品も交換、予備部品も全部つけてやった。
馬力は同じチューンのまま450馬力に落として、やって欲しい事を手紙にして書いた
▼結婚して息子と娘を授かる だけどいつも頭の片隅にGTRの事があった そしてまさかの再会へ
俺は彼女と結婚して、息子と娘を授かった。
ファミリーカーを買って、それなりにがんばってたけどいつも頭の片隅にGTRの事があった。元気に走ってるかなって。
今年、息子が大学に受かり、再来年は娘か、、そんな話をしてる時電話が掛かってきた。家電にだ。しかも夜の10時。
誰かと思って出るとむかし働いてた社長さんからだった。
社長さんは、業者さんオークションでお前のGTRを見たって言ってきた。
明後日入札があるからそれまでに見に来い。間違いなくお前のだって。
俺は会社を休日にし、車体番号を確認するために現地に向かった。KBNR32...100..... 間違いなく俺のGTRだった。
走行距離は7万1442キロ、俺と別れたあと3万8000キロ走ったそうだ。売り文句は、1500毎のオイル交換、必ず暖気後運転。
オーナーは2オーナー、あの後、21年間大切にしてくれてたかと思うと涙が止まらなかった。
正直、即買いしたかったが、財布を握ってる嫁に電話する必要があった。諦め半分で電話をしたがあっさり了承された。
いつも気にしてるの知ってたと、やれるだけやってみろと。
業者オークションで400万で俺はGTRを落札した。
売り主は、そちらで整備した後販売時にはもとオーナーからの手紙をつけて欲しいと話をしてきた。まあ俺がこいつの最後のオーナーになるわけだがなw
手紙にはこんな事が書いてあった
この手紙は私の前のオーナーが書いてくれたものです。
オイル交換は2000kmより前にしてほしい。
どんなに焦っていても暖気は必ずしてほしい。
少しでも気になる所があったら解決するまで整備してほしい。
大切に乗ってほしい。
この手紙を見た時もう涙が止まらなかった。
前のオーナーは本当に大事にしてくれたと。嬉しくて仕方なかった。
俺は前のオーナーに会ってみたいと売り主に話した。どうしてそんな事を思うのかも。
数日後、前オーナーさんから電話が掛かってきた。私も是非会ってみたいと。
前オーナーさんとは一ヶ月後に会うことになった。
俺はそれまでにこのGTRの車検と整備をしてオーナーさんと会う時に乗っていきたいと思った。
電話をしてから数日後、我が家にGTRがやってきた。
嫁や娘は何でこんな車に400万も...とか言ってたけどな
付属品の中には、俺が最初に選んだホイールや自作したエアロなんかがピカピカのまま残ってた。
とりあえずエンジンをかけてみる事にした。
電源と燃料ポンプをオンにしてセルを回してみる。
キュルキュル、、ヴォン
昔と何1つ変わらないエンジン音がそこにはあった。
今となっては喧しいマフラーその一個一個に涙がでたよ。自分が泣き虫だって嫌になるくらいに
それから俺は仕事が終わってから毎日GTRを整備した。
毎日整備していると昔の時間が戻ってくる気がした。昔真面目に仕事をしなかった俺を変えてくれたGTRは今になっても特別だった
前オーナーさんと会う一週間前、ナンバーを取得した。
番号は前と同じ??32にした。
整備してて驚いたことは、消耗品がほぼ新品であったこと。
▼前オーナーとは東京の料亭で会うことになった
前オーナーさんは関西の人だったけど、俺が東北ってこともあり、東京で会うことになった。
待ち合わせの料亭で待っていると、程なく車椅子に乗ったおじいさんがやってきた。
自分の親くらい歳の何処か風格があるおじいさんだった。
世間話から始めようと思っていたが、おじいさんは俺にありがとうございました。の一言から始まった。
おじいさんは俺に、自分は30台以上の車を乗ってきたけど21年間乗り続けたこの車は私の車人生で最高だった。一度でいいから作り主に話してみたかったと話してきた。
俺はおじいさんに車の説明、本当の馬力などを全て話した。
でも当たり障りの無い話題を最初は話してたと思う
俺はどうしても聞いてみたかった。これだけ愛してくれた車を手放した理由を。
正直、おじいさんは当時の俺より思い入れがあるように感じました。俺はそこまでの愛がある車を手放す理由がわかりませんでした。
この時の会話は今でも鮮明に覚えてます。
俺「一つ聞いていいですか?」
じいさん「なんでもいいですよ」
俺「なんでこの車を売ろうとおもったんですか?」
じいさん「.....」
俺「○○さんは当時の俺よりも話を聞いていて思い入れがあるように感じました。なぜ手放そうとおもったんですか?」
正直聞いてから聞いてはいけないことを聞いてしまったと思いました。
考えてみれば金の事もあるだろうし、おじいさんがあまり歩けないのは明白でした。
でもおじいさんは、
「俺さん、車ってのは何のためにあると思いますか?自分は走るためにあると思うんです。私は3年ほど前事故で腰を痛め、ほぼ歩けなくなりました。でもリハビリをする気になれたのは、いつかまたGTRに乗りたい、その一心でリハビリを続けることができたんです。1年半のリハビリ生活の中私は毎週、GTRのエンジンを掛けていました。」
俺「....」
じいさん「リハビリが終わったあと私はGTRに乗りました。でも腰を痛めた私にもう乗れる車じゃなかったんです。私は車のほとんどを処分しました。でもこの車だけは処分できなかったんです。」
俺「だったら家に置いておいても...」
じいさん「俺さん、私は車は走るためにあると思うんです。GTRはまだ走れる、そして私のようにまた夢を与えてくれる、って思いました。だから私は俺さんがしてくれたように、変えれるだけの消耗品全てを変え、俺さんが書いてくれた手紙の様にまた手紙をかきました。」
そう言っておじいさんは一通の封筒をだしました。
おじいさん「これ、覚えてますか?俺さんが書いてくれた手紙です。メーターの上に置いてありました。私はすべて守りましたよ、、。」
俺はほぼ号泣でした。何も言えないくらいに。
おじいさん「だから私はこの車を手放そうと決めたんです。また走ってほしい、それだけで満足だって。」
俺「ありがとうございます」多分言葉になってなかったと思う。
それから30分くらいしてお開きになった。
俺はほぼ泣き続けてたと思う。
おじいさんと話して思ったのは、21年ぶりにこの車を手にしたとき、俺が最後まで乗ってやると思ってた気持ちが、いつかこの車に乗れなくなったとき乗れる人に譲ろう、、そんな気持ちでした。
帰り際おじいさんに、少しドライブに行きませんかと誘った、おじいさんは笑顔で了承してくれた。
21年ぶりの首都高、俺とおじいさんは無言で1時間ほど走った。
別れ際おじいさんと一つの約束をした。
俺「俺、自分が乗れなくなったらおじいさんみたいにこの車を乗ってくれる人に譲ります。」
おじいさんはうなずくばかりでした。
帰路に就く前、もう一度首都高に上った。昔と同じ800馬力オーバーのセッティングで。
やっぱりRは今でも最高だった。
21年ぶりの赤い光はやはり眩しく、財布に痛かった。
おわり
▼ネット民の反応
青春時代に置いてきた思い出に運命の再会、素晴らしい!
やはりスカイラインGT-Rは世代を越えて愛される往年の名車だと改めて思う
末長く大切に乗り続けられますように
乙!
車ってやっぱいいよな。特に古い車は、ときどき意志を持ってるんじゃないかと思うことすらある。
俺も免許とって初めて買ったアルトワークスをダラダラ維持してるけど、朝なんか調子が悪くて出かける気をなくしたりする日に限って、山の方で濃霧が出たり、一緒に走りに行く奴が事故ったりとかしてる。
真面目に車には、超常的な何かがあると思う。
確かに好きで乗ってた自分の車のその後は気になることある
誰かに大事に乗られてるんだろか?それともすでに解体されたんだろか?てな
事情が許せば全部保管したいくらい
素敵な話