▼全日空ボーイング727 大阪→東京 26分の記録
1965年11月10日、全日空伊丹発羽田行きB727-100(後藤竹白機長)は離陸滑走路14Lをリクエストし離陸直後にIFRをキャンセル。
秋の猛烈な偏西風に乗って直線最短ルートを飛行して羽田へ直行。Bランへ川崎側から進入着陸。そして叩き出したフライトタイムはなんと26分でした。
今と違い、計器飛行が義務づけられていなかったので、離陸と同時に有視界飛行を申請、航空路を無視して飛んでいました。
サービスを行う時間が無く、CAは降りるお客様にドアの所で茶菓子を配りました。
当時の広告にも東京-大阪 30分と書いてあった。
ボーイング727のコックピット
▼当時の時代背景
ボーイング727導入
1964年1月、日航と全日空が国内短距離ジェット機をボーイング727と合意するや否や、全日空が電光石化のごとく契約に動き、いち早くリース機を投入したのに対して、既にコンベアCV880を国内幹線に投入して全日空に水を開けていた日航は、のんびり構えていました。
日本航空のCV880
ところが、全日空のリース機(N68650ユナイテッド航空仕様)を導入して、橋幸男と吉永小百合による「そこは青い空だった」の歌をはじめ大々的に宣伝を始めたため、あわてて就航予定を8か月も短縮しすることにして、ボーイング社に第一次分6機発注し、以後、両社とも機数を増やしていきます。
全日空のリース機(N68650)
46年前に全日空がボーイング727を飛ばした時の日本航空のショックは大きかったようです。
それまでの日航の国内幹線は、お払い箱になった国際線のDC-6Bで間に合わせるし、全日空がCV440とバイカウントで対抗してくるとCV880を回すというので優位に立っていたはずが、ユナイテッド航空についで世界で二番目に採用した超新鋭のセブンツーセブンが橋幸夫と吉永小百合のゴールデンコンビの歌と共に華やかに登場したからです。
常に、下に見下ろしていた全日空に、札幌線で追い抜かれてしまった腹いせのようなニュースが当時の雑誌に載っています。
新鋭機といえどもリースした唯一機での運航では、整備による欠航便の代替が必要であり、全日空はその便だけに日航のCV880のウエットリースを申し入れたのですが、もちろん断られました。
やむを得ずバイカウント828で代替したという のです。
全日空ボーイング727と日航CV880
日航にCV880のウエットリースを申し入れたが断られる
ここで目が覚めた日航は、急きょボーイング社に727を発注し、就航予定を8か月も早めたといいます。
両社の情勢判断と意思決定のスピード差を物語るものですが、先頭に立てば必ず足を引っ張られるのたとえのとおり、全日空が727を札幌線だけでなく、福岡線にも投入したいという願いは叶えられず、なんと、設立間もない日本国内航空のCV880に東京~大阪~福岡の免許が与えられたのです。
全日空は、泣く泣く札幌~東京~ 大阪~宮崎という奇妙な727の路線を開設したのでした。
日本航空のボーイング727
日本航空ボーイング727と全日空ボーイング727
▼ところがここで転機が訪れる
全日空羽田沖墜落事故が発生
事故機のボーイング727(JA8302)
全日空羽田沖墜落事故(ぜんにっくう はねだおきついらくじこ)は、1966年2月4日に東京湾の羽田空港沖で起きた全日空のボーイング727-100型機の墜落事故。
合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となった。
事故機のボーイング727(JA8302)
全日空羽田沖墜落事故機
出典元:YouTube
▼目視飛行への変更
1966年(昭和41年)2月4日。全日本空輸60便・JA8302号機は、乗員乗客133人を乗せて17時52分にゲートを出発。17時55分に千歳飛行場を離陸し、目的地である東京国際空港へ向かった。着陸予定時刻は19時2分、ゲート到着予定時刻は19時5分である。離陸後は、三沢、松島を経由し、18時48分に大子ポイントを巡航高度2万6,000フィート(高度7,800メートル)で通過した。大子ポイント通過を東京管制区管制所(航空路管制・東京コントロール)に報告したあと、1万4000フィートへ向けて降下を開始した。大子ポイント通過2分後の18時50分に東京国際空港ターミナルレーダ管制所の進入管制(東京アプローチ)と交信を開始した。JA8302号機の交信は、すべて右席の副操縦士が担当していた。
事故機の全日本空輸60便ボーイング727-100型機(JA8302、1965年製造)は、1966年2月4日の午後6時に千歳空港を出発し、目的地である羽田空港へ向かった。
出典:https://www.facebook.com/350934585039953/posts/409182819215129/
60便は東京湾上空まで問題なく飛行を続けたが、東京湾に差し掛かる際、計器飛行(IFR)による通常の着陸ルートをキャンセルし、有視界飛行(VFR)により東京湾上空でショートカットする形での着陸ルートを選択した。
出典:http://www.kotoba.ne.jp/word/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA60%E4%BE%BF
通常の着陸ルートをキャンセルし、東京湾上空でショートカットする着陸ルートを選択した理由は不明であるが、当時は現在のように計器飛行方式(IFR)が義務付けられておらず、飛行中に機長の判断でIFRで提出したフライトプランをキャンセルし、目視による有視界飛行方式(VFR)に切り替える判断が容認されていた。
そのため機長の中には、航空路を気にせず、最大巡航速度(マッハ0.88)で巡航し、なかには東京・大阪27分、東京・札幌46分といった"スピード記録"を打ち出す競争が行われていた。
出典:http://www.kotoba.ne.jp/word/%E5%85%A8%E6%97%A5%E7%A9%BA60%E4%BE%BF
後続機の日本航空のコンベア880の操縦士や、東京湾上を航行していた船舶の乗務員、対岸の丸善石油に勤務していた社員などが、墜落時に起きたと思われる炎を東京湾上に目撃していたことから、羽田沖の海上を中心に捜索が行われ、午後11時30分過ぎには第三管区海上保安本部管下の千葉海上保安部の巡視艇が遺体や機体の部品を発見し、墜落したことが確認された。
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全日空羽田沖墜落事故 1966年
出典元:YouTube
Boeing 727 crash into Tokyo Bay (1966) (ANA flight 60)
出典元:YouTube
▼単独機として当時は最悪の事故
相次いで遺体や機体の残骸が発見され、4月14日までに乗客一名を除く乗客乗員132名の遺体が発見された。
5月10日に遺体の捜索は打ち切られたが、最後の乗客1名の遺体は8月9日に横須賀の夏島の岸壁で漂着していたところを発見された。
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導入されてまだ間もない最新鋭機であったことや、日本における初の大型ジェット旅客機の事故で、ほぼ満席の乗客(多くはさっぽろ雪まつり観光客)と乗員の合計133人全員が死亡し、単独機として当時世界最悪の事故となったこともあり、世界中から注目を集めた。
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墜落現場から回収される事故機の残骸
格納庫に収容されるJA8302の残骸
事故調査報告書の決定までは約4年を要し、その間ずっと、事故機の残骸は羽田空港の格納庫の一角に並べられたままになっていた。
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この事故をきっかけに、日本国内で運航される全ての旅客機に、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの装備が義務づけられた。
また、この事故以降はフライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則になったという。
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フライトプランに沿って計器飛行方式で飛行するのが原則となり過当なスピード競争も終焉を迎えた。
全日空はその後改良型のボーイング727-200も導入。全日空の主力機として活躍した。