■BLとは?
ボーイズラブ(Boys Love)の略語
女性向けに作られた男性同士の恋愛をテーマにした作品や妄想を指す
出典:http://dic.nicovideo.jp/a/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A4%E3%82%BA%E3%83%A9%E3%83%96
BLの歴史はすでに40年以上前にさかのぼる。1960年末に萌芽が見られ、70年代には「24年組」と呼ばれる女性マンガ家たちが『風と木の詩』(竹宮惠子)、『摩利と新吾』(木原敏江)などを精力的に発表してブームとなった
出典:「ボーイズ・ラブ」ってなに? 視聴者支持率98%超の「オタク女子文化」番組で解説 | ガジェット通信 GetNews
■日本史における同性愛の歴史は古くから存在していた
明治時代初頭の一時期より前の日本には、同性愛を制限する法律は存在せず、場所や状況によっては男色はほとんど公然と行われたといわれる
男色(だんしょく・なんしょく)=男性の同性愛
■唐に渡った空海が日本の同性愛文化の発祥?
当時の唐の都長安では、ゲイ風俗が大流行しており、男娼もたくさんいた。日本から唐に渡った空海ら留学僧たちは、これこそ最先端のカルチャーだと感激
江戸時代に書かれた本には、今から1200年ほど前の平安時代に空海が唐から同性愛の文化を持って帰ってきたという記述があります
出典:http://www.kiss-school.com/dousei/rekishi05.php
俗説のひとつです
・男色は「女人禁制」の掟があった僧の間で大流行
古くから寺院においては、女人禁制の掟があり、女性と性交渉をすることは禁じられていましたが、同性間での性交渉を禁じる掟というものはなく、同性を性的対象と見なすことには隔たりがなかった
僧侶たちは、稚児と呼ばれる少年に身の回りの世話をさせました。この稚児が僧侶たちの性欲の捌け口になったのです
・そして貴族へも波及した
僧の世界に男色が入ってきたため、都の貴族の間でも男色が流行
出典:ハガクレ★カフェ
平安時代ではほとんどすべての貴族がバイセクシュアルであり、政治のうえで「夜の関白」「男のおぼえ」などのやっかみが飛び交うほどに必要不可欠なものだった
院政期の院(法皇・上皇)の近臣達は稚児上がりの者も多く、「院と深い関係を持って居た」と言われ、藤原頼長の「台記」には当時の皇室・朝廷関係者のその奔放な男色関係の多くが描かれている
■後の武家社会にも大きな影響を与えた
武家社会では女人に溺れるということは武門にある者として「恥」という考えがあったらしく(特に鎌倉幕府成立後)、進んで男同士の関係を持った
出典:男色とは?/越後の虎
男尊女卑の風潮が強かった当時、男色はむしろ美化されていた
そこには年長者が年少者を愛し保護する一方、年少者は年長者からの愛を受けて忠義を尽くす…という支配的権力関係があったとされています
出典:男娼とは
公家や将軍家などに受け入れられ、戦国期に入ると地方武士にまで広がっていった
出典:http://www.excite.co.jp/News/society_g/20140816/Taishu_9984.html
歴史に名を残している武将の9割以上は、男色の経験があったらしい。織田信長なら前田利家や森蘭丸、徳川家康なら井伊直政、伊達政宗なら片倉小十郎…
出典: 【歴史ミステリー】戦国武将の「男色」の凄まじさ…ホモセクシャルは「衆道」と称した日本の武士道? 【2chまとめ】ニュース速報嫌儲板
戦国武将では豊臣秀吉のみがその方の趣味がないとされています
出典:http://okwave.jp/qa/q5873800.html
元々農家出身だったこともあり、武家社会の文化に馴染みがなかったことが理由だと言われています
秀吉の女好きは有名で、正式な側室以外にも手を出した女性の数は100人を越えるといわれています
■江戸時代に入ると庶民の間でも男色が浸透。そして奇妙なルールまで出現…
江戸時代になると、衆道と呼ばれ、庶民の間でも流行するようになった。元禄時代の遊び人の間では、「色道の極みは男色と女色の二道を知ること」という風潮があったほどである。
町人文化の一つとして成立して、これらの行為は倫理的に問題ある行為とはされていなかった
井原西鶴は『男色大鑑』という短編集を著している
「奥のほそ道」で有名な江戸時代前期の俳人、松尾芭蕉(1644‐1694)にも男色趣味があったことが知られています
「衆道」では相手に愛を疑われた時、身体を張って、愛の証明をせねばなりませんでした。たとえば、小刀を膝に突き刺して見せたりしたんですね
この手の自傷系をふくむ、愛の証明を「心中立て」と呼びました。愛の証明のためには、死すら恐れたりはしません(このため、「衆道禁止令」が幕府から出されたことも)
■江戸幕府3代将軍徳川家光の男色ぶりは凄まじかったらしい
父・秀忠と、生母お江与は家光よりも次男の国松を可愛がったため、両親の愛を知らぬまま育つ。乳母である春日局に育てられ、祖父・家康によって後継ぎは家光と宣言される。幼い頃から母と乳母が醜い争いをしていたため、女性嫌いとなり、男色にふけるように
出典:ハガクレ★カフェ 大奥
男色にふけるあまり女色を疎かにし、世継ぎが中々、生まれず、周囲をやきもきさせたといいます
そのため春日局が必死になって「誰でもいいから側室にして」と色々な女を集め、それが大奥になりました。子供ができたら「役目は終わった」とばかりに女をお払い箱に
出典:三代将軍徳川家光はゲイだったのですか? - 家光が死んだとき、愛人関係にあ... - Yahoo!知恵袋
その後、尼さんに一目ぼれして、女性にもようやく興味を持てるようになったそう
江戸時代も後期となると衆道は衰退の一途を辿っていった
■幕末…そして時代は明治へ。キリスト教の影響で男色はタブー扱いされるようになった
幕末期は維新の中心となった薩摩藩や土佐藩の藩士などを中心に衆道は息を吹き返した。また1864年(元治元年)5月20日の近藤勇の書簡には新選組局内で「しきりに男色が流行している」と記されいる
日本で同性愛の性的肉体関係がタブーだと思われ始めたのは明治以降に入ったキリスト教の影響
ローマ・カトリック教会において、同性愛行為は自然法に反する罪深い (sinful) ものとされる
西洋において「男色は文化レベルが低く、野蛮である」という考え男色は富国強兵を目指す日本にとって、時代遅れのものとなってくる
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「男が男に惚れるなど言語道断」という感覚が広まっていきました
出典:何でも質問箱FAQ